2020年06月26日
唐津くんち五番曳山「鯛」大正13年塗替記念品
先日知り合いのお宅で唐津くんち五番曳山「鯛」の塗替記念品を見せていただきました。
曳山の塗替や修復は順次行われていますので新聞やテレビ等のニュースで目にすることも多いかと思います。
「鯛」は平成15年(2003)にも塗替が行われ、その塗替の記念品として手ぬぐいと「鯛」が描かれた唐津焼の絵皿が作成、配布されています。
平成15年の塗替と記念品については以下のブログをご覧ください。
http://tamatorijisi.web.fc2.com/topikkusu.htm
今回見せていただいたのは、大正13年(1924)、96年前ですか、一尺四方の塗り物で右下に「鯛」の鱗が描かれたシンプルなものです。 裏に「大正十三年九月 魚屋町山笠 第三回塗替落成紀念」と書かれています。
「鯛」は弘化二年(1845)に制作されたとされていますので、25年程の間隔で塗替が行われていたようです。
曳山の塗替や修復は順次行われていますので新聞やテレビ等のニュースで目にすることも多いかと思います。
「鯛」は平成15年(2003)にも塗替が行われ、その塗替の記念品として手ぬぐいと「鯛」が描かれた唐津焼の絵皿が作成、配布されています。
平成15年の塗替と記念品については以下のブログをご覧ください。
http://tamatorijisi.web.fc2.com/topikkusu.htm
今回見せていただいたのは、大正13年(1924)、96年前ですか、一尺四方の塗り物で右下に「鯛」の鱗が描かれたシンプルなものです。 裏に「大正十三年九月 魚屋町山笠 第三回塗替落成紀念」と書かれています。
「鯛」は弘化二年(1845)に制作されたとされていますので、25年程の間隔で塗替が行われていたようです。
2019年07月02日
佐賀市大和町梅野の「磨崖仏」(32)
今年は観測史上最も遅い梅雨入りとなり、ポツポツと小雨が降っていた6月29日現在の状況報告です。
作業用の足場も撤去されたようで、南から「磨崖仏」側に上がる仮設の階段(脚立?)が設けられていました。
「磨崖仏」そのものには変化はありませんが、「磨崖仏」南側の岩が「磨崖仏」と同じ面まで削り取られています。移設に向けての準備も着々と進んでいるようです。
「磨崖仏」の現状(西から 令和1年(2019)6月29日)
「磨崖仏」の現状(西から 令和1年(2019)6月29日)
「磨崖仏」の現状(南西から 令和1年(2019)6月29日)
作業用の足場も撤去されたようで、南から「磨崖仏」側に上がる仮設の階段(脚立?)が設けられていました。
「磨崖仏」そのものには変化はありませんが、「磨崖仏」南側の岩が「磨崖仏」と同じ面まで削り取られています。移設に向けての準備も着々と進んでいるようです。
「磨崖仏」の現状(西から 令和1年(2019)6月29日)
「磨崖仏」の現状(西から 令和1年(2019)6月29日)
「磨崖仏」の現状(南西から 令和1年(2019)6月29日)
2019年06月29日
江戸期の船着き場発見 –佐賀市柳町-
6月26日の新聞やテレビによると佐賀市柳町思案橋近くで江戸期の「船着き場」が発見されたとのことです。
「江戸期の船着き場発見 佐賀市柳町 石段など状態良好」
(佐賀新聞LiVE 令和1年6月26日)
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/392272
佐賀城下には有明海から直接船入できたようで、あちこちに船荷を積み下しができる設備がありました。しかしながら佐賀城下における水運の地位が次第に低下することにより、水路の浚渫や護岸の維持管理が行われなくなり、さらに埋め立てにより水路の狭隘化が進んでしまいました。十間堀など幅が半分以下になっていますよね。それどころかすっかり埋め立てられた水路跡があちこちにあります。佐賀市内の排水の悪化の原因の一つでしょうね。
今回の発見によって佐賀城下の水運に対する関心が高まることを期待しています。
佐賀市柳町思案橋
「江戸期の船着き場発見 佐賀市柳町 石段など状態良好」
(佐賀新聞LiVE 令和1年6月26日)
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/392272
佐賀城下には有明海から直接船入できたようで、あちこちに船荷を積み下しができる設備がありました。しかしながら佐賀城下における水運の地位が次第に低下することにより、水路の浚渫や護岸の維持管理が行われなくなり、さらに埋め立てにより水路の狭隘化が進んでしまいました。十間堀など幅が半分以下になっていますよね。それどころかすっかり埋め立てられた水路跡があちこちにあります。佐賀市内の排水の悪化の原因の一つでしょうね。
今回の発見によって佐賀城下の水運に対する関心が高まることを期待しています。
佐賀市柳町思案橋
2019年06月07日
佐賀市大和町梅野の「磨崖仏」(31)
令和1年6月1日現在の状況報告です。
相変わらず立ち寄る機会がありませんでしたが唐津に行くついでにやっと寄れました。
近づくと削岩機の音もなく静かになっています。作業用のプラットホームも足場だけとなりそろそろ「磨崖仏」の移設に向けての「養生」期間かなと思いましたがどうなんでしょうかね?
この辺りでは佐賀市久保泉町の久保泉丸山遺跡、エジプトのアブ・シンベル神殿の移設のミニチュア版が愈々始まるのでしょうか。
「磨崖仏」の現状(西から 令和1年(2019)6月1日)
「磨崖仏」の現状(西から 令和1年(2019)6月1日)
「磨崖仏」の現状(北から 令和1年(2019)6月1日)
相変わらず立ち寄る機会がありませんでしたが唐津に行くついでにやっと寄れました。
近づくと削岩機の音もなく静かになっています。作業用のプラットホームも足場だけとなりそろそろ「磨崖仏」の移設に向けての「養生」期間かなと思いましたがどうなんでしょうかね?
この辺りでは佐賀市久保泉町の久保泉丸山遺跡、エジプトのアブ・シンベル神殿の移設のミニチュア版が愈々始まるのでしょうか。
「磨崖仏」の現状(西から 令和1年(2019)6月1日)
「磨崖仏」の現状(西から 令和1年(2019)6月1日)
「磨崖仏」の現状(北から 令和1年(2019)6月1日)
2019年05月21日
「鍋島夏雲日記」が翻刻されました
本日、5月21日の佐賀新聞に「鍋島夏雲日記」が翻刻・出版されたとの記事が掲載されていました。(記事となった日付は違いますが佐賀新聞以外にも朝日新聞、読売新聞、西日本新聞にも掲載されました。後日追加)
「鍋島夏雲日記」活字化 幕末の国内情勢克明に」
(佐賀新聞LiVE 令和1年5月20日)
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/376493
鍋島夏雲(市佑)の名前を聞いてどのような人物か直ぐ分かる方は幕末佐賀藩の歴史に精通されている方です。私も余り詳しくなく、納富鍋島家の当主だったこと、幕末の10代藩主鍋島直正公の近くに仕えて、重要な政策決定に参画していたことぐらいです。
その鍋島夏雲の「日記」を活字で読めるというのは幕末佐賀藩についての理解がこれまで以上に深まることを意味します。これまで一部の研究者がその内容に言及したことはありますが誰もが読めるというのは画期的だと思います。
県内の図書館で実際に手に取ることを楽しみに待ちたいと思います。
(佐賀新聞記事:後日追加)
「鍋島夏雲日記」活字化 幕末の国内情勢、克明に 直正公の側近筆頭
幕末佐賀藩の重臣だった鍋島夏雲(かうん)が当時の情勢などを書き記した「鍋島夏雲日記」の活字化が終わり、お披露目式が20日、上峰町役場で開かれた。武広勇平町長や編集を担当した古川英文・佐賀城本丸歴史館副館長らが出席し、幕末佐賀藩の歴史をひもとく貴重な資料の完成を祝った。
鍋島夏雲は、同町内を領地としていた納富鍋島家の当主で、10代藩主・鍋島直正の側近筆頭を30年に渡り務め、藩内外の情報に精通していた人物。日記はこれまで活字化されておらず、研究者らが活字化を待ち望んでいた。
活字化は、同町の「明治維新150年記念さが維新関連事業」の一環として実施。佐賀大地域学歴史文化研究センターの伊藤昭弘准教授が監修を務め、1年掛けて完成させた。
日記には、佐賀藩内のさまざまな情報のほか、開港を迫ってペリーが来航したことや、薩摩藩の島津久光が大兵を率いて上京したこと、幕府の蒸気船・観光丸の返上について勝海舟が佐賀藩と幕府の仲介役を請け負ったことなど、幕末の歴史を振り返る上で重要な事柄が記されている。
夏雲日記の一部を拡大した屏風も完成し、併せて披露された。表装されたのはペリー来航の第1報や、幕府が佐賀藩に対して鉄製大砲を200門注文したことを伝える文書。夏雲の自筆とされる部分で、歴史への興味を高めてくれる。
お披露目式では、武広町長が「幕末佐賀藩の活躍を顕彰できれば」とあいさつ。古川副館長が「夏雲日記の全体像はこれまで把握されておらず、今回の活字化は英断」と述べた。
日記はA5版、432ページで、300部制作。県内の図書館や高校、町内の小中学校、全国の都道府県立図書館などに寄贈される。屏風は町役場に展示され、一般来庁者にも公開される。
「鍋島夏雲日記」活字化 幕末の国内情勢克明に」
(佐賀新聞LiVE 令和1年5月20日)
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/376493
鍋島夏雲(市佑)の名前を聞いてどのような人物か直ぐ分かる方は幕末佐賀藩の歴史に精通されている方です。私も余り詳しくなく、納富鍋島家の当主だったこと、幕末の10代藩主鍋島直正公の近くに仕えて、重要な政策決定に参画していたことぐらいです。
その鍋島夏雲の「日記」を活字で読めるというのは幕末佐賀藩についての理解がこれまで以上に深まることを意味します。これまで一部の研究者がその内容に言及したことはありますが誰もが読めるというのは画期的だと思います。
県内の図書館で実際に手に取ることを楽しみに待ちたいと思います。
(佐賀新聞記事:後日追加)
「鍋島夏雲日記」活字化 幕末の国内情勢、克明に 直正公の側近筆頭
幕末佐賀藩の重臣だった鍋島夏雲(かうん)が当時の情勢などを書き記した「鍋島夏雲日記」の活字化が終わり、お披露目式が20日、上峰町役場で開かれた。武広勇平町長や編集を担当した古川英文・佐賀城本丸歴史館副館長らが出席し、幕末佐賀藩の歴史をひもとく貴重な資料の完成を祝った。
鍋島夏雲は、同町内を領地としていた納富鍋島家の当主で、10代藩主・鍋島直正の側近筆頭を30年に渡り務め、藩内外の情報に精通していた人物。日記はこれまで活字化されておらず、研究者らが活字化を待ち望んでいた。
活字化は、同町の「明治維新150年記念さが維新関連事業」の一環として実施。佐賀大地域学歴史文化研究センターの伊藤昭弘准教授が監修を務め、1年掛けて完成させた。
日記には、佐賀藩内のさまざまな情報のほか、開港を迫ってペリーが来航したことや、薩摩藩の島津久光が大兵を率いて上京したこと、幕府の蒸気船・観光丸の返上について勝海舟が佐賀藩と幕府の仲介役を請け負ったことなど、幕末の歴史を振り返る上で重要な事柄が記されている。
夏雲日記の一部を拡大した屏風も完成し、併せて披露された。表装されたのはペリー来航の第1報や、幕府が佐賀藩に対して鉄製大砲を200門注文したことを伝える文書。夏雲の自筆とされる部分で、歴史への興味を高めてくれる。
お披露目式では、武広町長が「幕末佐賀藩の活躍を顕彰できれば」とあいさつ。古川副館長が「夏雲日記の全体像はこれまで把握されておらず、今回の活字化は英断」と述べた。
日記はA5版、432ページで、300部制作。県内の図書館や高校、町内の小中学校、全国の都道府県立図書館などに寄贈される。屏風は町役場に展示され、一般来庁者にも公開される。
2019年05月10日
佐賀市大和町梅野の「磨崖仏」(30)
平成31年5月8日現在の状況報告です。
行こう行こうと思いながらなかなか立ち寄る機会がありませんでしたが1ヶ月半振りにやっと行けました。近づくと削岩機の音がかなり大きく響いていています。
「磨崖仏」の全面にあった「壁」は撤去され、作業用のプラットホームがむき出しになっていました。それに南側の岩は大分剝がされていましたし、「磨崖仏」の上部にコンクリートが吹き付けられていましたので印象がずいぶん違います。
「磨崖仏」周囲の岩を取り除く作業後に「磨崖仏」本体を取り外す段取りになるのでしょうか。何やらエジプトのアブ・シンベル神殿の移動のミニチュア版を想像すればよいのでしょうか?今後も状況を見守っていきたいと思います。
工事部分と「磨崖仏」の現状(北西から 令和1年(2019)5月8日)
工事部分と「磨崖仏」の現状(西から 令和1年(2019)5月8日)
「磨崖仏」の作業の状況(北から 令和1年(2019)5月8日)
「磨崖仏」の作業の状況(北から 令和1年(2019)5月8日)
行こう行こうと思いながらなかなか立ち寄る機会がありませんでしたが1ヶ月半振りにやっと行けました。近づくと削岩機の音がかなり大きく響いていています。
「磨崖仏」の全面にあった「壁」は撤去され、作業用のプラットホームがむき出しになっていました。それに南側の岩は大分剝がされていましたし、「磨崖仏」の上部にコンクリートが吹き付けられていましたので印象がずいぶん違います。
「磨崖仏」周囲の岩を取り除く作業後に「磨崖仏」本体を取り外す段取りになるのでしょうか。何やらエジプトのアブ・シンベル神殿の移動のミニチュア版を想像すればよいのでしょうか?今後も状況を見守っていきたいと思います。
工事部分と「磨崖仏」の現状(北西から 令和1年(2019)5月8日)
工事部分と「磨崖仏」の現状(西から 令和1年(2019)5月8日)
「磨崖仏」の作業の状況(北から 令和1年(2019)5月8日)
「磨崖仏」の作業の状況(北から 令和1年(2019)5月8日)
2019年03月26日
佐賀市大和町梅野の「磨崖仏」(29)
平成31年3月25現在の状況報告です。
保存に向けての小路と思われる状況を報告しましたが、1ヶ月後はさらに準備が進んでいるようでした。
「磨崖仏」周辺で前回土砂がかなり削られていた斜面にはコンクリートが吹き付けられ、ワイヤーで固定されていました。丁度、作業の内容は分かりませんが、作業員の方が「磨崖仏」とコンクリート面の境部分で作業をされていました。
どのような「保存」になるのか分かりませんが今後も状況を見守っていきたいと思います。
工事部分と「磨崖仏」の現状(北西から 平成31年3月25日)
工事部分と「磨崖仏」の現状(西から 平成31年3月25日)
「磨崖仏」の作業の状況(北から 平成31年3月25日)
保存に向けての小路と思われる状況を報告しましたが、1ヶ月後はさらに準備が進んでいるようでした。
「磨崖仏」周辺で前回土砂がかなり削られていた斜面にはコンクリートが吹き付けられ、ワイヤーで固定されていました。丁度、作業の内容は分かりませんが、作業員の方が「磨崖仏」とコンクリート面の境部分で作業をされていました。
どのような「保存」になるのか分かりませんが今後も状況を見守っていきたいと思います。
工事部分と「磨崖仏」の現状(北西から 平成31年3月25日)
工事部分と「磨崖仏」の現状(西から 平成31年3月25日)
「磨崖仏」の作業の状況(北から 平成31年3月25日)
2019年03月05日
「県政史編さんの現状」についての県議会質疑
前回ブログの最後で書いていましたが、佐賀県議会の一般質問で「県政史編さんの現状」についての質疑があったようです。質問者は県民ネット・藤崎輝樹議員(国民民主党)、回答者は藤原俊之総務部長です。
藤崎議員については以下に紹介があります。
https://www.dpfp.or.jp/member/1820
質疑内容については佐賀新聞で以下のように報告されています。
「県政史編さんの現状」(佐賀新聞LiVE)
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/342296
藤崎議員の質問の趣旨は、県政(行政?)関係者が健在なうちにまとめた記録を後世に伝えていくべきだが、その編さん作業の進捗状況の途中経過はどうなっているのか、でしょうか。
それに対して、県からは①~④の経過報告があり、⑤~⑦の進捗状況と編さんに当たって留意している点が述べられています。
①編さんは2016年4月に着手している。
②1976年度から2018年度までの43年間を対象としている。
③2020年度末に発刊する
④2016~2017年度の準備期間では新聞記事や県政資料から年表を作成し、資料の収集、整理なども実施してきた。
⑤本年度から執筆作業に入り、池田県政の5期目、香月県政、井本県政、古川県政の原稿は、業務に携わっていた県職員OBに執筆を依頼して進めている。
⑥現役職員で内容の確認、修正をしながら磨き上げていく。
⑦県政の出来事を客観的な立場から公正、正確に記録し、良い出来事ばかりでなく食糧費問題など、かつて問題になったことも記載するように留意して取り組む。
既に1975年度までの『県政史』及び『県政史 資料編』が1979年に佐賀県が刊行しているので、図書館等で手にすることができます。ただ、個人的には、政策決定過程や、それでどういう成果があったのかがぼやけているのではないかと感じています。
個人的に望むのは、佐賀県の政策決定がどのような過程で立案され、実施され、どのような結果を残したのかが分かる内容にしていただくことです。どのような成果なり失敗があり、現時点でどのような評価があるのかまで整理していただきたいですね。
当然、立案段階では議会も深く関わったわけですから、当時の議会での動きも示してもらいたいと思います。
結局、読んでもよく分からない、資料の羅列になるのだけは避けて欲しいと願っていますが、刊行されるのを楽しみに待ちたいですね。
藤崎議員については以下に紹介があります。
https://www.dpfp.or.jp/member/1820
質疑内容については佐賀新聞で以下のように報告されています。
「県政史編さんの現状」(佐賀新聞LiVE)
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/342296
藤崎議員の質問の趣旨は、県政(行政?)関係者が健在なうちにまとめた記録を後世に伝えていくべきだが、その編さん作業の進捗状況の途中経過はどうなっているのか、でしょうか。
それに対して、県からは①~④の経過報告があり、⑤~⑦の進捗状況と編さんに当たって留意している点が述べられています。
①編さんは2016年4月に着手している。
②1976年度から2018年度までの43年間を対象としている。
③2020年度末に発刊する
④2016~2017年度の準備期間では新聞記事や県政資料から年表を作成し、資料の収集、整理なども実施してきた。
⑤本年度から執筆作業に入り、池田県政の5期目、香月県政、井本県政、古川県政の原稿は、業務に携わっていた県職員OBに執筆を依頼して進めている。
⑥現役職員で内容の確認、修正をしながら磨き上げていく。
⑦県政の出来事を客観的な立場から公正、正確に記録し、良い出来事ばかりでなく食糧費問題など、かつて問題になったことも記載するように留意して取り組む。
既に1975年度までの『県政史』及び『県政史 資料編』が1979年に佐賀県が刊行しているので、図書館等で手にすることができます。ただ、個人的には、政策決定過程や、それでどういう成果があったのかがぼやけているのではないかと感じています。
個人的に望むのは、佐賀県の政策決定がどのような過程で立案され、実施され、どのような結果を残したのかが分かる内容にしていただくことです。どのような成果なり失敗があり、現時点でどのような評価があるのかまで整理していただきたいですね。
当然、立案段階では議会も深く関わったわけですから、当時の議会での動きも示してもらいたいと思います。
結局、読んでもよく分からない、資料の羅列になるのだけは避けて欲しいと願っていますが、刊行されるのを楽しみに待ちたいですね。
2019年03月01日
「平戸道」に参加した方の投書
おまいの書いとった「平戸道」に行きんさった人の佐賀新聞のオピニオンに投書しとんさったけん持ってきたばい。おまいのブログには「ミニミニがらくた資料館」のことは紹介しとらんやったない。
と、知り合いがわざわざ佐賀新聞(平成31年(2019)2月25日)の切り抜きを持ってきてくれました。唐津市の田井賢作さんという方が先日の「平戸道」(伊万里~今福)を歩く会について「「近過去」伝えていこう」というタイトルで投書されたものでした。
田井さんは、途中立ち寄った「ミニミニがらくた資料館」(伊万里市山代町波瀬)に展示されているSPレコードや農機具などについて紹介しながら「展示物を見ながら、これらは若い世代にこそ見せるべきだと思った」こと「がらくた資料館は近過去教育の絶好の場所である」と訴えられている。
「近過去」という言葉は初めて目にしましたが、一寸前の過去、まぁここ10~20年程前のことを意味しているようです。
展示されている「がらくた」を感心しながら見るばかりで、田井さんのような思いを持たなかった、できなかったことを恥じてしまいました。
この資料館を私費で建設された故川内訓人さまに感謝しつつ、現在も管理し続けておられる奥様に心よりお礼申しあげます。
なお、常時公開されているのではなく、今回の歩く会のためにわざわざ公開してくださったものです。
一緒に「県政史編さん」事業についての新聞記事も持ってきてもらいましたので次回紹介したいと思います。
「ミニミニがらくた資料館」越しに伊万里湾を望む
と、知り合いがわざわざ佐賀新聞(平成31年(2019)2月25日)の切り抜きを持ってきてくれました。唐津市の田井賢作さんという方が先日の「平戸道」(伊万里~今福)を歩く会について「「近過去」伝えていこう」というタイトルで投書されたものでした。
田井さんは、途中立ち寄った「ミニミニがらくた資料館」(伊万里市山代町波瀬)に展示されているSPレコードや農機具などについて紹介しながら「展示物を見ながら、これらは若い世代にこそ見せるべきだと思った」こと「がらくた資料館は近過去教育の絶好の場所である」と訴えられている。
「近過去」という言葉は初めて目にしましたが、一寸前の過去、まぁここ10~20年程前のことを意味しているようです。
展示されている「がらくた」を感心しながら見るばかりで、田井さんのような思いを持たなかった、できなかったことを恥じてしまいました。
この資料館を私費で建設された故川内訓人さまに感謝しつつ、現在も管理し続けておられる奥様に心よりお礼申しあげます。
なお、常時公開されているのではなく、今回の歩く会のためにわざわざ公開してくださったものです。
一緒に「県政史編さん」事業についての新聞記事も持ってきてもらいましたので次回紹介したいと思います。
「ミニミニがらくた資料館」越しに伊万里湾を望む
2019年02月26日
佐賀市大和町梅野の「磨崖仏」(28)
平成31年2月22日現在の状況報告です。
前回(1月30日)は、ついに「移設」の準備か(?)という状況を報告していましたが、本日通りかかると間違いなく「移設」と思われる作業が進行していました。今月からできるだけマメに見に行くと思っていましたが状況は大きく変わっていました。
前回、「磨崖仏」と道路の間に囲いが設けられ、「磨崖仏」本体にボルトで固定されたワイヤーが張られていましたが、工事用の階段と「磨崖仏」の前面に作業用と思しきプラットホームが設置されていました。作業員の方が何かやっているようでしたが、作業の内容までは分かりません。
「磨崖仏」の周囲も土砂がかなり削られ、何より「磨崖仏」に何か塗布されたのか黒っぽく変色していました。石の表面を強化するための薬剤(エポキシ系でしょうか?)でも塗布したのかな~?と思いながら撮影しましたが、流石に作業員の方にはお尋ねできませんでした。
いずれにせよ「保存」に向けての作業に間違いないようでホッとしました。
今後もできるだけ通りかかるようにしたいと思いますし、このブログで報告したいと思います。
工事部分と「磨崖仏」の現状(北西から 平成31年2月22日)
「磨崖仏」の囲い状況(西から 平成31年2月22日)
「磨崖仏」の作業の状況(北から 平成31年2月22日)
前回(1月30日)は、ついに「移設」の準備か(?)という状況を報告していましたが、本日通りかかると間違いなく「移設」と思われる作業が進行していました。今月からできるだけマメに見に行くと思っていましたが状況は大きく変わっていました。
前回、「磨崖仏」と道路の間に囲いが設けられ、「磨崖仏」本体にボルトで固定されたワイヤーが張られていましたが、工事用の階段と「磨崖仏」の前面に作業用と思しきプラットホームが設置されていました。作業員の方が何かやっているようでしたが、作業の内容までは分かりません。
「磨崖仏」の周囲も土砂がかなり削られ、何より「磨崖仏」に何か塗布されたのか黒っぽく変色していました。石の表面を強化するための薬剤(エポキシ系でしょうか?)でも塗布したのかな~?と思いながら撮影しましたが、流石に作業員の方にはお尋ねできませんでした。
いずれにせよ「保存」に向けての作業に間違いないようでホッとしました。
今後もできるだけ通りかかるようにしたいと思いますし、このブログで報告したいと思います。
工事部分と「磨崖仏」の現状(北西から 平成31年2月22日)
「磨崖仏」の囲い状況(西から 平成31年2月22日)
「磨崖仏」の作業の状況(北から 平成31年2月22日)