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2017年11月17日

下田の石神(4) 「櫨紅葉の烏帽子石」

 何故か最近「駄目だし」をいただくことが多いようです。

 今回は「駄目だし」のことではなく、「櫨紅葉の烏帽子石」というタイトルで佐賀新聞連載の「ふるさとスケッチ」(佐賀女子短期大学名誉教授山田直行氏によるスケッチと文)紹介されていると教えてもらいました。
 それではと検索してみるとありました。

 以下で是非ご覧ください。

 「ふるさとスケッチ」:櫨紅葉の烏帽子石-天に直立 造形の神秘-

 http://www.saga-s.co.jp/articles/-/146418

 以下の画像は、ほぼ同じ時期で同じアングルだと思います。

烏帽子石
 烏帽子石

 「ふるさとスケッチ」のバックナンバーと山田直行氏の略歴は以下をご覧下さい。

 http://www1.saga-s.co.jp/news/furusato.html  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神

2017年09月08日

下田の石神の「再発見」 佐賀新聞より

 昭和10年に石神群が「発見」されて51年経った昭和61年6月、戦後忘れられていた石神=巨石が「再発見」され、再び世間の注目を浴びることになりました。もう、31年前になります。
 それは、森林浴、古代史ブームの中での「観光の目玉」という思惑での注目であった。現在の「肥前大和巨石パーク」への始まりでもあった。
なお、「平成の大合併」前ということもあり、記事での所在地は佐賀市ではなく佐賀郡大和町ということになります。

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 大和町に神秘の巨石群
   古代ロマン誘う眺め
     埋もれた観光名所 半世紀ぶり脚光

 戦中、戦後の混乱で忘れ去られていた観光名所が、半世紀ぶりに脚光を浴びようとしている。佐賀郡大和町下田にある「石神群」。巨大な岩が点在する情景に、戦前は「わが天孫民族が造化し祖神として尊崇せる…」と銘打って保存会も結成され、ブームを呼んだ。が、太平洋戦争を境に人の足は途絶え、雑木に埋もれて約五十年がたった。森林浴、古代史ブームのなか、町は川上峡観光の新たな目玉にと現在、立ち入り調査を行い、名所復興に意気込んでいる。

 石神群には、官人橋から北に1.5㌔ほど離れた下田地区から登る。通称・下田山の山腹(高さ約二百五十㍍)にある。高さ十㍍ほどの切り立った一枚岩や、巨大な岩石が石垣のように積み重なったものなど自然が造り出した神秘的な光景が広がっている。
 石神群が戦前の名所だったことは、下田山のふもとに住む西フジさん(86)が当時の保存会趣意書や絵はがきなどを大切に持っていたためわかった。
 「下田遺跡保存会」と称した組織は昭和十年一月、佐賀軌道会社社長・福田慶四郎がつくったらしい。賛助員には古川静夫知事をはじめ、当時の各界著名人の名が並び、佐賀新聞など各新聞社も加わっている。
 趣意書には、「天の岩戸」「造化大明神」などそれぞれの岩の名称を紹介。「この巨石文化の遺跡がわが天孫民族発祥の昔をしのびうるはもちろん、考古学上貴重なる資料にして佐賀県の一大誇りなりと信ず」として、広くPRを呼びかけている。 
 県、マスコミ、各種団体の協力を受けての売り出しは、いわば“戦前版ムラおこし”。これがレジャーの少なかった時代に、大当たりしたらしい。

 当時、「岩見屋」の看板で茶店を開いていた西さんは、「一日二千人もの客が登ったこともありました」とにぎわいぶりを振り返る。店ではラムネ、わらじ、トコロテンを売り、竹のつえのレンタルをするなど好評だったという。「下田石神回り記念」と刻んだスタンプを置き、登山者の寄せ書き帳もつくった。
 西さんの帳面には、元国会議員古賀了さん(82)=佐賀郡久保田町=や弁護士安永沢太(90のサインも。古賀さんは「古代のロマンを誘うような素晴らしい眺めだった」。安永さんも「岩の上で弁当を広げた記憶がある」と懐かしそう。二人とも戦後は一度も訪れていない
 およそ半世紀を経て注目されている石神群。町は補正予算で調査費を組み、本格的な
開発に乗り出す方針。南の文殊宮を含めた川上峡一帯の観光浮揚に夢を膨らませている。

*この記事には、「幡石(世田姫海神幡立ノ遺石)」、「蛙(かわず)石(奥の院石神群中の雄姿)」、「昭和10年当時、1日2000人の人手でにぎわったこともあるという「天の岩戸」」というオプションが書かれた三点の絵はがきの写真が掲載されています。
「佐賀新聞」(昭和61年(1986)6月6日(金)朝刊:19頁)
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Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神

2017年07月18日

下田の石神群の「発見」(12) 「肥前史談」より(4)

 「肥前史談」の連載3回目です。
 この(3)では(1)・(2)と異なり記紀其他の文献を縦横に引用しながら下田の石神群の位置づけを行っています。
 最後に、「石神を崇敬し、下田の地を霊域として相当の施設を講じたい」と述べていますが「崇敬」し「霊域」としての扱いはされているのでしょうか。
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 巨石文化の大遺蹟
  松梅村下田山中の石神群(三)
     久保生

 以上、大体石神の位置形状等に就て記したが、之れから記紀其他の文献に拠りて少しく述べて見たい。肥前風土記に曰く、

 郡西有川名曰佐嘉川 年魚有之 其源出郡北山 南流入海 此川上有荒神 往来之人半生半死 於茲県主等祖大荒田占問 于時有土蜘蛛 大山田女 狭山田女二女子云 取下田村之土 作人形馬形祭祀神必在応和 大荒田即随其辞祭此神 神歆此祭遂応和之=又此川上有石神曰世田姫海神云々

 風土記の編纂年代に就ては種々説があるやうであるが奈良朝元明天皇和銅六年五月甲子の制に

 畿内七道諸国郡郷名著好字其郡内所生 銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具録色目 及土地沃塉 山川原野名号所由又古老相伝旧聞異事 載于史籍言上

 とあるに徴すれば即ち奈良朝時代(千二百数十年前)と見るのが至当であらう。只だ風土記の記事の多くは動もすれば一概に口碑伝説として取扱はるゝ傾があるのであるが、それが今目前に事実として現はれ来つたのは何人も驚異の眼をみはる所であり、又史学会に一大センセーションを惹起するに至るべく、何れにしても近来の大問題である。
 而して此の石神に関しては古来専門学者間にも種々意見があり未だ定説としても聞かないやうであるが、茲に其の大体の意見を綜合すれば石神なるものは奇石、霊石、石棒、石剣の類を神体として祀る神の名称であって、音読してシャクジンと云ひ、それが転訛してシャクジ、サクジ、サゴシ等と称してゐる。其の石を神として崇拝した最も古き例は神代に伊邪那岐命の黄泉比良坂に塞りし石を道反大神と号し其の時携へた杖を投じて之を岐神と名つけられたのが初めであるそうで、普通俗間にて石神と称するは路傍巷間に祀り、或は山間辺境にも少なくない。其の信仰は良縁安産及び子育等に霊験ありとして祈願するやうである。又石神のシャクジンは塞神の字音より来たそうで、本体は岐の神又は道反の神に起因し塞のサクは塞障の義或は辺境々界の意にして本来サヘの発音より転してサヒとなり更にサキともサクとも転訛し、遂にシャギとなったもので所謂道祖神にも関係を有してゐる。道祖神と云へば造化神として世人に崇敬せらるゝこと既に周知の事である。
 巨石が信仰の対象
 それから又古代民族-我等の祖先が巨石(石神)を以て偉大なるものゝ表象或は信仰の対象としたことに就て研究して見たい。「記」に載する所によると、伊邪那岐命が佩せる十拳剣を抜いで其の子伽貝土神の頸を斬り給へる際其の刀の前についた血が湯津原村にたばしりて成りませる神の名は石折神次に根折神、次に石筒之男神、次に着ける御刀の本の血が湯津原村に走りて成りませる神の名は甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、また建布都神とあつて是等は何れも堅き勇ましい神である。之に因て当時民族の心理状態を考へると大なる力を有つた巨石から出て、神々が男性的の力強い武勇の神となつてゐる。
 又「紀」には「剣刃垂血是為天 安河辺所在五百箇磐石即此経津主神之祖矣」と記され、更に「古事記」には大国主命の国譲の条に建御名方神に就て記して曰く、「其建御各方神 千引石擎手末而来 言誰来我国 忍々如此物言…」
 と此の千引とか五百引とか云ふのは石の重さを示したもので今日力を表はすに幾馬力という風に量るのと同一である。
そんな風で巨石―岩―などに対しては神秘的な偉大なる不可思議なる力のあるもの雄大なるものであると考へてゐたことが是等の例に依つて首肯される(天照大神が岩屋戸に隠れ給ひ天手力男命が御手を取りて引立し奉つた神話伝説の如き岩との関係に就て考へると意味深長である)。
 次に「紀」の高皇産霊尊の勅に曰く、
 「吾則起樹天津神籬及天津磐境 当吾孫奉齋矣…」
 此の磐境はイハサカとも訓み、玉垣の如く石を並べたもので神は此内に在ますものと解せらる。又万葉集第二巻の中に高市皇子尊、城上殯宮之時 柿本朝臣人麿作歌一首並短歌として、
 「…神佐扶跡 磐隠坐 八隅知之 吾王乃 所聞見為…」
同第三巻に河内王を豊前国鏡山に葬れる時の歌として、
 「豊国乃鏡山之石戸立 隠爾計良志雖待不来座
とあり、此の石隠といふのは人の死んだ場合にも使つてゐるが、単に形容の言葉ではなく古墳の内が石壁石天井にて造られてあることから此の意味も亦含まれて居る。是亦巨石文化思想の一端と見るべきであらう。尚ほ、今日の神社の境内に力石と云ふのがあり又墳墓の如き皆な石を用ゐてゐるのはそうした昔からの因縁関係があるからである。其他是等に関する文献は多々あるが余り煩雑になるから茲には只だ其の一例を挙げたに過ぎない。
  世界的にも珍しい
 それから此の石神に関して記述した文書中一二を左に録せば、
△播磨風土記-(神島伊刀島等)所以称神島者此島西辺在石神形似仏像故因為名
(神山)此山在石神故号神山
△擁画漫筆-石神は道神の神体にて今も坂東の国々に円石を祭ることあり。武蔵豊島郡の石神井、足立郡の石神などいへる村落も之に起れるなるべし。
△雲根志-洛大宮通の西上立売の北に石神の社あり、祭る所岩なり。此の神体の岩昔堀川の西三条の南にあり、中頃禁裏の築山に移さる。或時奇怪なるを以て禁闕の外に出さしむ。然して年あり、其後今の地に移し、社に封じて石上大明神と崇め奉る。
△倭訓栞-、出雲風土記に石神と見ゆ。尾張にては猿田彦神を云ひて石神といふ。仁明紀に陸奥国玉造温泉石神式、常陸国鹿島郡大洗磯前社の事文徳実録に委しく見えたり。又能登国羽咋郡大穴持像石神社、又伊勢国鈴鹿郡の石神神社、此の石神神社を今シャク大神といふ。小社村の山にある高さ百丈余の奇厳なり。
などあり。其中にて伊勢の石神の如きは高さ百丈余と云へば随分大きなものであるが、我が下田の石神に至りては、其の数に於ても他に数十倍し、而かも何れも雄大なもので千状万態実に驚嘆の外ない斯の如きは全国は勿論世界的にも珍らしいのである。
 尚ほ、此の下田山中に奉祀した世田姫に就ては学者間に種々説あるが、こゝには伴信友著の神社私考を挙げて参考に供する。曰く、
 神功皇后の御妹なり。三韓征伐の時干珠満珠の両顆を得、皇后に奉りて大功を立て給ふ。皇后韓国より凱旋の後この姫命に豊国に任じて韓国の戍とし給へるにより国名を負はせて豊姫とも称へ申したりけん。
  石神と祖先崇拝
 最後に一言したい。我が古代民族が石神を祀り、石神を信仰の対象としてゐるのは実に其の威霊の加護を仰ぎ、家の守り国の守り民族子孫の繁昌を遂げしめんことを祈るに外ならないのである。
 素より我が日本は神国である。敬神の道と云ふは即ち民族祖先の崇拝であつて、代々の遠祖は幽界に在りて其の代々の子孫を保護し、代々の子孫は現世に在りて代々の祖先を祀る。家に於けるの祭祀、国に於けるの祭祀其の義異なることなし。言を換へて云へば家に在りて孝と云ひ、国に在りては忠と云ふ、固より異なることなく我が忠孝の一本は茲に存するのである。されば、此の意味に於て我石神を崇敬し、下田の地を霊域として相当の施設を講じたいものである

    「肥前史談」第8巻第5号 昭和10年(1935)5月 肥前史談会 佐賀:17-20頁
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河上神社
 河上神社  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神

2017年07月14日

下田の石神群の「発見」(11) 「肥前史談」より(3)

 「肥前史談」の連載2回目です。
 この論考には、下田の石神群の分布図が掲載されています。また、谷の名称や烏帽子石を中心とした「下田山」を「高天原」と称していることも記載され、石神群の状況がよくわかります。なお、現在「肥前大和巨石パーク」管理棟で配布されている「巨石群探訪コース」に掲載されている、神頭石(ジトウセキ)と道祖神石(サヤノカミイシ)の位置が逆に記載されているようです。どちらが妥当なのでしょうかね。
 また、探訪コースも烏帽子石から「桃ノ谷」に下りますが、現在の雄神石に向かわずに「奥の院」とされる蛙石〔かわづいし〕に向かっています。
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 巨石文化の大遺蹟
  松梅村下田山中の石神群(二)
    久保生
  
  躅躑〔つつじ〕が新緑と映す
 新清水寺から少し上ると石切場に出る。世に下田石と称せられた花崗岩の産地だけありて、石割の音が戞然として山谷に谺し、そこらには磨上げたやうな石片が山をなして転がつてゐる。其の石切場の右手から直ぐ石神の参道となつてゐるが、此の参道は近頃村内有志の手で生茂つた雑木や裏白シダ等を切取り新に開鑿したもので、急勾配であり又崎嶇羊腸攀登頗る困難である。併し雑木間には幾多の躑躅が点綴してゐるから五月風薫の候にもなれば其の燃ゆるが如き深紅の色が新緑と相映して如何に美観壮観を呈するであらうか想像するに余りある。
  本体の造化大明神
 其の参道を辿りへて二三丁にして第一の道祖神石に達する。大さは高廿三尺、巾廿五尺(上部は平面で長廿八尺、巾廿五尺)。之れから上には次から次に神頭石御船石龍の石等巨大な石神があり、其に俗称する造化大明神に至りては世田姫を祀り、即ち肥前風土記に載せた石神の本体で、川上淀姫神社の上宮として明治の中頃迄毎年十一月二十日祭典を執行し来つたものである。這は男神石女神石から成り、一見屋根の形をなし、其の下は洞窟にして人の通行が自由である。而して其の男神石の西方に面した分は恰も削つたようで、縦横共三十二三尺、南面した方は高三十六尺、上部東西の長は五十三尺に達し、一見其の雄大なるに誰しも驚嘆する程である。
  烏帽子石の奇観
 更に登れば誕生石屏風石(稲荷大明神勧請)、御座石等が峭立し、中にも御座石の如きは長三十三尺、巾十一尺の長方形をなし、上部は平面で板敷のやうになつてゐるが、何十人でも座することが出来る。此処は標高約三百米の地点で、眼界開け近くは川上の清流及び其の対岸六段原一帯の山々、遠くは有明海を隔てゝ雲仙多良等の諸峰を雲煙模糊の裡に望み、頗る景勝に富んでゐる。其の上手には宛然烏帽子の形をなした烏帽子石高さは地上から尖頭まで二十四五尺あり、下部は洞窟をなし、正に山中の一大奇観!
  怪奇を極めた神石群
 此の烏帽子石からだんへ谷に下り神水川の細流を渉りて再び急坂を攀ぢ登り詰めた処に蛙石がある。頭上には弘法大師を勧請したが、今から約二十年前までは誰しも大師を祀つたこと知る人も無かつたところ村内でも有名な大師信者の坂口又七(六十位)と云ふが、三夜続けて大師の夢の御告に依り発見したそうで、それから参詣者が常に絶へないと云ふ伝説さえある。此の蛙石の処から右へ一二丁行くと奥の院で山の神を祀つた山神石があり、石扉には「宝暦十三癸未天正月吉祥日施主山口氏」と刻した。更に元の如く引返し、蛙石を後にして下れば男神石天の岩門神ゴメ石等があり何れも雄大で、而かもグロ味たつぷり見れば見る程苦笑を禁ずる能はざらしむる。之れで石神群は一通り巡覧するわけであるが、此の地点から下る一方で下りさへすれば元の新清水寺の門前に出る。其他尚ほ渓谷や樹林の間にも無数の巨石が隠見し、殊に山頂の天神石、名尾越の山法師石櫓石、大梅の山旗立石等に至りては山径嶮峻にして荊蕀薜蘿に埋れ攀登容易でない。
  造化崇拝の象徴
 更に又此の石神群を廻りて、高天原だの造化谷だの若くは誕生川だのと云つた名称が今日まで遺つてゐるのは注目に値する次第であるが、何れにしても此の山中の石神たるや大小幾十百総て怪奇を極め、神巧鬼鏧、千状万態実に名状し難く、殊にそれが幾千年の昔古代民族の造化崇拝の信仰の象徴たることに想到すれば何となく神々しく荘厳に打たれ感嘆せざるを得ないのである。

   「肥前史談」第8巻第4号 昭和10年(1935)4月 肥前史談会 佐賀:22-24頁
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下田石神群分布図
 石神群分布図  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神

2017年07月11日

下田の石神の「発見」(10) 「肥前史談」より(2)

 先ずは連載1回目をお読みください。
 本文は、風土記における紹介、造化大明神、幡石、烏帽子石の紹介、「登山口」である禅宗(黄檗宗)の古刹大梅山新清水寺の紹介から構成されています。
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 巨石文化の大遺蹟
  松梅村下田山中の石神群(一)
    久保生

 世にも珍らしき三千年前の巨石文化を語る一大遺蹟=古代民族の信仰の対象たる石神群が我が佐賀郡松梅村下田の山中に近頃発見せられ今や各方面に多大のセンセーションを捲き起すに至つた。肥前風土記に曰く「川上有石神曰世田姫海神云々」と。
 風土記の編纂年代に就ては種々説あるが、奈良朝元明天皇和銅六年五月甲子の制に「畿内七道諸国郡郷名著好字其郡内所生銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具録色目及土地沃塉山川原野名号所由又古老相伝旧聞異事載于史籍言上」とあるに徴すれば即ち奈良朝時代(今を去る千二百数十年前)と見るのが至当であらう。
 尤も風土記の記事の多くは動もすれば一概に口碑伝説として取扱はるゝ傾なきにあらず。併しそれが今眼前に事実として現はれ来つたと云ふのは何人も驚異の眼をみはる所である。
是に於て去る一月には県政記者団が見学に赴き、二月には関総務部長一行、肥前史談会員等の団体見学続て県史蹟調査員の出張となり其の都度余は参加し、幾度も踏査し、大に得る所があつたが以下案内を兼ねて記述し、更に考古学上の見地から少しく卑見を陳べて見たいと思ふ。
 巨巌が樹林の間から
 佐賀から川上街道を北上し、都渡城から更に川上川の清流に沿ひ日親上人の遺蹟や加藤清正槍先の題目で有名なる宝塔院の前を過ぎ、渡月橋畔に出づれば直ぐ下田の部落新清水門前で此処は即ち登山口である。此の下田は三面山を以て囲繞せられ、僅に西南の一方川に沿うて湾曲し、稍々平地が開けてゐる位で登山口に立てば眼前に金敷山(四二五米)に続て家石山(三二四米)等が横はり、呼べば応へんとし、そして鬱蒼たる樹林の間からは幾つとなく巌角が露れ其の家石山中腹にあるのが即ち本体の石神だそうで、地方の人々は造化大明神と呼んでゐる。又少し隔てた右手の山腹には白旗を立てたやうな形をなした巨巌が見へるのは、往昔造化大明神が何処からか天降りになる時押立てゝ来た白旗を其の巌に立掛けたのがそれである奇しき伝説さへあるに、十数年前には其の上空を真鶴が舞うてゐたこともあると云つてゐる。更に左手には烏帽子の形をなしたのや或は両断してそれを合せたやうのや其他幾つもの奇巌怪石が点在し、攀登に先ちて漫ろに好奇心をそゝる。
 大梅山新清水寺
新清水門前から上ること一丁内外にして大梅山新清水寺だ。石神とは別に関係はないやうであるけれども此処は登山者がどうしても一度は足を停めねばならぬ格好の地位にあるから紹介する必要がある。
此の寺は藤津郡古枝村普明寺と法縁関係があり、其の創建は詳かでないが開山は聚海禅師法名際祥、宝暦六年八月十三日遷化されたとあるから之から推定せば享保或は元文年間であらう。而して聚海禅師の法系は、普明寺開山桂巌禅師-霊堂-界輪-聚海(即ち大梅開山)-義文-乾外(普明寺第十四代)-貫通-不昧-禅機-敦宗(佐賀市三溝大興寺住理職中島敦宗師)となつてゐる。其の聚海禅師が礼服着用柱杖子を携へ、椅子に靠りし肖像画は普明寺第十八世の賛があり、今尚ほ普明寺塔頭宝泉寺に珍蔵されてゐる。賛に曰く、

 金剛眼晴 生滅面皮 七尺藤杖 接獅子児 一柄塵払 作人天師 平生作用 瞬目揚眉 為人化道 従来無為 淵才偉器 願海難窺 
 是謂当山中興大梅之第一枝
   普明住山輝岳拝題


 然るに其後明治維新に当り排仏毀釈のため殆ど廃寺の状態となつてゐたが大正六年三月と昭和六年三月と二回に本堂庫裏等改築し今日に至つたのである。

  「肥前史談」第8巻第3号 昭和10年(1935)3月 肥前史談会 佐賀:15-17頁
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造化大明神
 造化大明神
  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神

2017年07月07日

下田の石神の「発見」(9) 「肥前史談」より(1)

 昭和10年(1935)1月に始まった地元佐賀新聞紙上における紹介記事を契機に下田の石神群に対する関心が高まる中で石神の巡拝者が増加し、記事が掲載された2ヶ月後の3月には千人/日を越えることもあったようです。
 その熱気の中で、昭和10年(1935)3月、佐賀の名士である福田慶四郎氏を会長とする下田遺蹟保存会が結成されました。

 これまでブログで紹介した佐賀新聞の記事
 「学界の驚異! 巨石文化の一大遺蹟を発見 松梅村下田の石神群」
 http://tamayura.sagafan.jp/e835765.html

 「松梅村の石神群に就て」
 http://tamayura.sagafan.jp/e835896.html

 「佐賀有志記者団の下田石神群踏査」
 http://tamayura.sagafan.jp/e836164.html

 「石神群踏査」「松梅村の石神群 保存会で紹介」
 http://tamayura.sagafan.jp/e836166.html

 「巨石文化の一大遺跡 石神の研究【一】」
 http://tamayura.sagafan.jp/e841602.html

 「巨石文化の一大遺跡 石神の研究【二】」
 http://tamayura.sagafan.jp/e841608.html

 「巨石文化の一大遺跡 石神の研究【三】」
 http://tamayura.sagafan.jp/e841610.html

 「下田遺跡保存会成る」
 http://tamayura.sagafan.jp/e842693.html

 そのような中、佐賀新聞(昭和10年1月24日)に「松梅村の石神群に就て」を寄稿した肥前史談会久保大来氏による「巨石文化の大遺跡」(1)~(3)が肥前史談会の機関誌「肥前史談」第8巻第2~4号に連載されました。
 これから3回に分けて「巨石文化の大遺跡」をこのブログで紹介させていただきます。これをお読みいただければ、今から72年前になる昭和10年(1935)当時の下田の石神群に関して何が論議されていたのかがよく分かります。また、「巨石文化の大遺跡」(2)には石神群の分布図も掲載されていますので現在の石神群を理解する上でも貴重です。
 このブログを始めた目的の一つに佐賀新聞と肥前史談の紹介がありましたのでちょっと肩の荷が下りました。

 「巨石文化の大遺跡」を紹介する前に、老婆心ながら2点補足しておきます。
・当時の石神群への進入路は、新清水寺の北側を回り込んで向かうコースであり、江戸時代の絵図にも描かれているコースを利用しています。現在の「肥前大和巨石パーク」の進入路はあくまでも「観光施設」として近年造成されたものです。
・所在地については「家石山中腹にあるのが即ち本体の石神」と書かれていますが、家石山は下田よりも北に位置する峯でありここで言及している巨石=石神が位置する場所とはずれています。ただし、家石山にも巨石や大石は点在しています。

巨石パークの空
 巨石パークの空  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神

2017年04月18日

下田の石神(3) 「幡石」の再発見

 肥前大和巨石パークの巡拝グループ「かえる会」の会報「巨石パークの奇跡」205号(2017年3月19日刊)に「幡石(はたいし)」の再発見が報告されています。
 この「幡石」については、昭和10年(1935)年に佐賀新聞紙上で連載された「下田の石神群」の記事や戦前の絵葉書等で、大梅山に所在し「幡石」「世田姫海神幡立遺石」「旗石」「旗立石」等と記されています。写真も残っていますが、「巨石パークの奇跡」205号の写真には「幡石」の名称の基になった特徴ある面(部分)が残念ながら掲載されていません。

 再発見まで下田の山中を歩き廻られたメンバーの方に謝意を表します。おつかれさまでした。
 詳しい報告は「巨石パークの奇跡」205号をお読みください。

 「巨石パークの奇跡」205号(平成29年3月19日刊)
 https://blogs.yahoo.co.jp/sagamanga/39758598.html

 下草が繁茂しないうちにぜひ巡拝してみたいと思います。  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神

2017年03月24日

下田の石神の「発見」(8)-下田遺跡保存会の結成-

 佐賀新聞社蒲原夢涯記者による「石神の研究」が三回に分けて発表された二日後に下田の石神群を保存する下田遺跡保存会についての活動が紹介されている。
 佐賀市郡の知名士が福田慶四郎氏の別邸に揃い、保存会の結成及び会長以下の役員が決定し、石神群を「佐賀県の一大名所」として広く世界に紹介するという遠大な目的のために動き出すことになった。
 道神石とあるのは道祖神石のことではないかと思われますが、神戸石というのが神頭石と道祖神石の間にありますが、今は無名となっている(名前が忘れられた)巨石ではないかと思われます。
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 川上の神秘
  下田石神群を探る
    世界に誇る巨石文化遺跡
     下田遺跡保存会成る
       会長に福田慶四郎氏推戴

 佐賀郡松梅村下田山中にある古代巨石文化の遺跡石神〔しゃくしん〕群の発見に就ては、考古学上は勿論一般的にも異常の衝動を与へ或は探求の為め或は観光の為め登山するもの日に多きを加へつつあるが、下田遺跡保存会では世界に誇る佐賀県の一大名所として広く世界に紹介すべく、去る三日午前十時、松梅村都渡城なる福田慶四郎氏別邸無暦庵に史跡研究其他の有志百数十名を招待し、同別邸を去る程遠からぬ下田山中に案内、石神群を探求する所があった。
 集まるもの生駒佐賀高等学校校長、森岡教諭以下教授連、上條佐賀地方裁判所長其他判検事、元代議士栗山資四郎、同豊増龍次郎、弁護士内田清治、同石動丸源六、元学習院教授真崎誠、八十二翁横尾孫作、高園佐賀署長、友成佐賀駅長、佐賀営林署員、古川松梅村長、地元村会議員、辻権作少将、津田東邦支店長、永倉商工会連合会長、各新聞社長、記者諸氏で、先ず福田慶四郎氏より石神保存に就ての挨拶あり。
 此時、永倉義晴氏より此際遺跡保存につき善処する為め福田氏を会長に推戴しては如何と諮り、満場異議なく之に決し、次で永倉義晴氏を同副会長に推選し、其他の委員は福田会長の指名に一任。ここに下田遺跡保存会の組織成るや石神群の発見者たる蒲原夢涯氏より石神は少くも三、四千年以前古代民族崇敬の的であつた巨石文化の遺跡である所以を肥前風土記其の他資料を引用して詳細に説明する所あり。終つてここにて午餐を共にし、小憩の後一同は肥前嵐峡の風光を賞しつゝ愈々路を北にとつて下田登山の途に就いた。
 山麓なる新清水寺にて小憩、用意を整へ先ず誕生川の渓流を溯りて西造化谷より坂路を攀ぢ、新清水より五丁目、道神石、神戸石、神頭石、御船石、龍ノ石、兜石の石神群を拝して造化大明神に至る。此処は肥前風土記の所謂世田姫海神を祀る石神にして曾て河上神社の上宮と称し、明治二十年頃迄祭典を執行し来りし神所である。一同は高さ数十丈屋根の如き一大巨石の下一大空洞をなせる偉観に驚嘆の眼を放ちつゝ之を通り抜け、更に尾根を伝ふて誕生石、稲荷大明神、御座石等を探求し、山中第一の神秘境たる烏帽子石に至り、一同全く其荘厳さに打たれたのであつた。
 これより道を転じて桃ノ谷に下り、更に急坂を登りて奥の院蛙石〔かわづいし〕の勇姿に接して帰路に就き、高天原〔たかまがはら〕の神域と称せらる天ノ岩戸、雄神石〔おがみいし〕、神籠石〔かごめいし〕等の石神群の雄大さに一驚を喫しつつここに往還二十町の参拝を終つた。
 この日時間の都合にて天神石、日暮石〔ひぐれいし〕、幡石、山ノ神石其他数十ヶ所の石神群を探求することが出来なかったが此等の石神群は実に世界に誇り得る一大史跡たるの感を深うしたが、これより春暖の候とて一般の登山者も多かるべく、一昨三日の如き参拝者一千名を突破したといふことである。
     「佐賀新聞」(昭和10年(1935)3月5日(火)朝刊:3頁)
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烏帽子石
 烏帽子石
天の岩門
 天の岩門
蛙石
 蛙石
山神石
 山神石  


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2017年03月21日

下田の石神の「発見」(7)

 佐賀新聞社蒲原夢涯記者による「石神の研究」の三回目(最終回)です。
肥前風土記に記載された「石神」は造化大明神のみを指すが、下田の「高天原」を中心に点在する巨石全てが石神であると述べている。さらに、その築造された時期を新石器時代と比定しています。
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 巨石文化の一大遺跡
   石神の研究【三】
     肥前風土記にも書載

  蒲原夢涯

 以上述べたる通り、肥前風土記に載するところの石神〔しゃくしん〕は、今日の所謂造化大明神、即ち明治二十年頃迄河上神社の上宮としに、造化祭を執行して来たもののみを指すやうである。然るにこの石神は独り造化大明神のみならず、烏帽子石、蛙石、天ノ岩戸等これ以上のもの少なからず、全山悉く石神ならざるはなしに至りては全く驚嘆するの外なく、今少しく研究の歩を進めなければならぬ。
 さて、この石神が自然的地球の形成に依つたものでなく、我等人類の祖先が智と力に依て築上げたるものなることは実物其ものが既に証明してゐるがこれは有史以前何時頃のものであらうか。少くとも三、四千年以前新石器時代の半頃からではあるまいかと思はれる
 旧石器時代は地質学上洪積時代に属し、人類は自然の洞窟内に居住し、人死ぬれば遺骸を其儘洞窟内に葬る習慣であつた。然るに人智漸く進みて新石器時代に入り、巨岩を以てメンヒル、ドルメン、ストンサークルなどの巨岩の築造をなすに至つたもので下田山の石神群も この時代ものであらう。
 果して然らば下田山の石神群にその何れに属するか。神集島や今山、大願寺等にある如きドルメンでもなく、高良山、雷山等のストンサークルとも違ふ、メンヒルの一種と思はるるも決して一本の立石といふものではない。総て意味深長なる雄石雌石より成り、古代の民族が人類繁殖の為造化の諸神を祀れることは想像に難からぬ。
 近来学者の研究に依り、この石神は独り我国のみならず世界各国に於ても所々に発見せられてゐるが、発表された文献に徴するもこの下田山の如き雄大荘厳にして然かも全山悉く然りといふ如き多数存在するを聞かぬ。人類最初の発祥地と称せらる中央亜細亜より如何なる経路を辿つて世界に邇漫せるか、石神の比較研究も我等祖先の発祥を知るに最も必要なることである。
 兎に角、下田の石神群を拝しては我等祖先の信仰力と創造力の偉大さに絶賛の声を放たざるを得ぬが、現在伝説にある海神国、高天原、造化山、天ノ岩戸等とも併せ研究すれば神秘の扉は自ら開かれむか。(完)
 *山中第一の神秘境烏帽子石の写真掲載
     「佐賀新聞」(昭和10年(1935)3月3日(日)朝刊:2頁)
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造化大明神(南東から)
造化大明神(北から)
 造化大明神  


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2017年03月17日

下田の石神の「発見」(6)

 佐賀新聞社蒲原夢涯記者による「石神の研究」の二回目です。
 佐賀の国学者糸山貞幹の所説を紹介し、造化大明神が「世田姫」(与止日女)の依り代であり、「彦神彦火々出見命をも併せ祀つてある」ことから「本祠なる石神」であり、地元住民の言う「上宮」であると蒲原記者は考えています。
 このことについては今後の検討が必要であろうと思われます。
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 巨石文化の一大遺跡
  石神の研究【二】
    肥前風土記にも書載

  蒲原夢涯

 茲に先ず肥前風土記に所謂石神即ち世田姫海神に就て説かねばならぬ。風土記の原文には此「川上有石神曰世田姫海神(謂鰐魚)年常潜上到此神所海底小魚多在相従之」とある世田姫は「ヨタヒメ」と訓み、与止日女である。古事記、日本書紀などにもある如く、海の姫神にして本身鰐魚である所の神は大綿津見神(オホワタツミ)の女豊玉姫にて彦火々出見命の妃に当る。然らばこの石神は海神豊玉姫にして雄神石、雌神石より成る以上彦神彦火々出見命をも併せ祀つてあることは想像に難からぬ。
 明治時代佐賀郷土の国学者で、神代史に造詣深かつた故糸山貞幹翁はこの石神につき次のやうに説いてゐる。
 河上神社の社伝をはじめ諸書に欽明天皇二十五年鎮座とあるは本祠なる石神のことにて、石神は即ち彦神姫神の霊石なり。彼世より風土記勧進の頃迄は下田山に鎮座しけむ。然るを後に石神は其儘に置き、別に社を今の実相院の西南に作り、其後又今の処に遷し奉れりとなれり。
 貞幹翁も石神は彦神姫神の霊石にして河上神社の本祠なることを明にしてゐるが村民も亦この石神を河上神社の上宮なりとし、明治二十年頃迄は同社の神官が造化祭と称して毎年霜月二十日献饌奉幣をなして来たものである。
 現在、この石神を古来造化大明神と称へてゐる処より見るも造化の諸神として崇めたものに違いない。殊に石神群のあるところを高天ヶ原、造化谷、誕生川などと呼んでゐるが、風土記以前より既に神所として神聖視してゐたことが認識せらるるのである。また、同じく風土記に、
 川上に荒ぶる神あり、往来の人半ば生き半ば死にぬ。茲に於て県主等が祖大荒田占ひ問へり。時に土蜘蛛大山田女、狭山田女の二女あり。二女子言へらく、下田村の土を取りて人形馬形を作りて此神を祀りなば必ず応和むことあらむと。大荒田即ち其辞に従ふて此神を祭れり。神此祭りをうけて遂に応和めり。
 とある。
 之に依て之を見ればアイヌ族たる土蜘蛛の穴居せる時代に、天孫民族の荒神即ち勇者現はれて之を征服し土蜘蛛共多くの供物を献上したことを指すものではなからうか。兎に角、下田村の土を以て形馬形を作るといふは全くここを神所としてゐたからである
 *天ノ岩戸の写真掲載
「佐賀新聞」(昭和10年(1935)3月2日(土)朝刊:2頁
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造化大明神
 造化大明神  


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