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2017年08月29日

巨石巡拝記(20) 下田・蛙石(かわずいし)巡拝(2)

 天の岩門側からゆるゆると上っていくと、蛙石の「背中」が見えてきます。蛙石の前後には大小の大石が点在しています。蛙石西側にある大石の中央部は人が通れる程に割れており、この割れた部分が本来の道ではないかとも思っています。

蛙石西側大石
 蛙石西側の大石(中央部を通行できる)

 蛙石全体は東西方向に細長く、うまく全景を捉えることはできませんが、北側側面の蛙の形(?)をしている苔を見ることができます。ただ、今年は、高温と小雨のせいか、苔の生育が悪いようで、蛙の形と言われても、ますます「?」です。

 蛙石の上に安置されていたという弘法大師像は蛙石の上にはありません。しかしながら、西側からは上れますので、用心しながら上ってみると、大師像が安置されていた跡が残っています。確かに、下からはその存在は分からなかったかもしれませんね。
 何時のことか分かりませんが、大師像(石像)は、巨石パークの麓にある新清水寺の境内に安置されています
 大師像の作りは、例えば「たもと石」の上に安置されている文殊菩薩像と大きさや雰囲気が似ており同じ時期のものではないかと考えています。その時期が、何時かは分かりませんが。

弘法大師像
 蛙石に安置されていた大師像(新清水寺)

新清水寺
 新清水寺

 新清水寺には、巨石パークから一旦出て、車で行くことができますが、上の駐車場から歩いても行けますので、時間に余裕がある方は一度お参りされることをお奨めします。

 新清水寺

  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 巡拝記

2017年08月25日

巨石巡拝記(19) 下田・蛙石(かわずいし)巡拝(1)

 肥前大和巨石パークの北東、天の岩門から北東に緩やかに上っていく細長い尾根上に蛙石は鎮座しています。標高330㍍程、北側は急な斜面となっています。

 戦前の新聞記事等ではこの尾根は「石神群」中の霊域とされ、造化大明神から烏帽子石が存在する「高天原」を経由して、「奥の院」とされた蛙石に辿り着くコースが記載されています。

 管理棟で配布されている「巨石群探訪コース」図では16番目の巨石「蛙石(かえるいし)」とされていますが、戦前の新聞等では「かはづいし」とルビが付けられています。このためここでは「かえる」ではなく「かわず」としています。

 「かえる」と「かわず」
 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q116130551?__ysp=6JuZIOOBi%2BOCj%2BOBmg%3D%3D

 なお、「巨石パークのいわれ」には次のような説明があります

 形がカエルに似ているところから名付けられ、佐賀弁でコウジンドックと愛唱(愛称?)されている。頭上には弘法大師を歓請(勧請?)したが、今から80年前までは誰しも大師を祀ったことを知る人も無かったところ、村内でも有名な大師信者の阪口又八という人が、三夜続けて大師の夢のお告げにより発見したそうで、それから参詣者が常に絶えないといわれている。

 「コウジンドック」は「荒神土公」とでも書くのでしょうか。「大きな蛙」は「土の神」と見なされているという位の意味なのでしょうかね。
 「形がカエルに似ている」には、イマイチ承服しかねますが、蛙石の北側側面に生えている苔の形がカエル、ど根性ガエル、に似ているという話には一寸ばかり同意します。

蛙石(苔)
 北側面の苔

 形は「鯨」それもマッコウクジラに似ているんじゃないかということで、個人的には「鯨石」あるいは弘法大師を勧請したということですから「大師石」というのがしっくりくるように思いますが…。
 
 蛙石までの最短コースは、駐車場から谷沿いに石神の滝を経由して西側の直登路を取ります。尾根路を20分程上って、神籠石と天の岩門を経由して10分程で到着します。

 巨石ですから Google Earth でその姿を確認することができます。

蛙石
 西側から見た蛙石

蛙石
 北東側から見た蛙石

蛙石
 東側から見た蛙石

蛙石基部
 蛙石の基部

 蛙石の場所


  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 巡拝記

2017年08月22日

佐賀市大和町梅野の「磨崖仏」(9)

 先週(平成29年8月18日)の佐賀新聞(事件・社会:28面)に梅野の「磨崖仏」について「(佐賀)市教委などは保存する方針を固めた」との記事が掲載されていると教えてもらいました。記事は、「佐賀新聞 LIVE」に up されていましたのでそれで読むことができました。

 「340年前の磨崖碑保存へ 佐賀市大和町」(2017/08/18)
 http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/455893

 先週初めに、私用で通り掛かりましたが、「磨崖仏」の直ぐ上まで斜面が削られていました。「記録保存という「美名」で終わってしまうのか」と暗澹たる気持ちになりましたが、思いがけなく「嬉しい」内容でした。
 「県内最大級の大きさであることや江戸時代に作られた文化財としての価値から判断」して、「現地保存か移設するかは引き続き検討する」とされ、市教委は「「その場所にあることに意味がある。できるだけ現地保存したい」との意向を示している」とのことでした。
 最終的な「保存内容」はどうなるかわかりませんが、現時点の判断としては極めて妥当なものだと考えます。

 この判断に至るまでの市教委、佐賀土木事務所の方々のご苦労を思うとともに、継続して取材されてきた岩本大志記者には敬意を表したいと思います。

 さて、知り合いから「記事には理由まで書いて、やっぱい磨崖碑てしてあっばってん」との疑問で、確かに今回の記事でも「市教委は、ハスの花の上に仏の名前が刻まれていることなどから磨崖碑と判断した」と書かれています。私は、学芸員でも専門家でもないただの素人ですが、「磨崖仏」を紹介した最初に以下のように書きました。

 「磨崖仏」と言っていますが、画像を見ると分かりますが仏の姿ではなく「南無大悲観世音菩薩」という「九字名号」が彫られています。ただし、上部には「光背(頭光)」、下部には「蓮華座」が配されています。つまり、「九字名号本尊」の形を呈しています。このため「磨崖仏」としています。頭上には三枚の板石が「庇」として設けられています。

 確かに、「文字」が九字刻まれていますが、それは単なる文字ではなく「観世音菩薩」そのものを意味していることが分かります。

 いずれにせよどのような「保存」となるのか、大いに関心を持ちつつ注視していきたいと思います。  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 梅野の「磨崖仏」

2017年08月18日

火の玉物語(3)

 お盆も無事に終わり、帰省していた縁者達もそれぞれの所に戻っていきました。恒例の帰省ですが、その当たり前に感謝したいと思います。
 さて、「火の玉」についての3回目です。
 前回の120年後の円蔵院から起こった出来事で、「葉隠聞書」の語り手である山本常朝の師湛念和尚にも関わってきます。

・・・・・・・・・
 それから百二十年後の寛文六年(1666)(光茂公御年譜による)また怪事件が勃発した。
 時の藩主鍋島光茂公は龍造寺家と鍋島家に縁故深い高伝寺〔佐賀市本庄町本庄〕や、慶誾寺〔佐賀市本庄町鹿子〕、静元寺〔佐賀市本庄町本庄〕、宗龍寺〔佐賀市水ヶ江1丁目〕、龍泰寺〔佐賀市赤松町〕、天祐寺〔佐賀市多布施3丁目〕、宗智寺〔佐賀市多布施4丁目〕の七ヶ寺に特別の保護を与えることにした。円蔵院住持村了和尚は、龍造寺家一門の墓所たる円蔵院〔佐賀市中の館町〕も、前記七ヶ寺と同格に優遇していただきたいと願い出たが、果して光茂公のお耳に達したやら、甚だ頼りない有様であったので、業を煮やした村了は、光茂公の慶誾寺御参詣の折をねらって直訴した。
 直訴は極重罪である。その場で村了は捕えられ、八戸町の天福院〔佐賀市新栄西1丁目〕で首の坐に直された。
 不平満々の村了は、怒りの形相物すごく、太刀取りの役人どもを睨みつけ、
 「村了の肉体は囚われて斬らるるとも、わが一念は縛られもせねば斬られもせぬ。いついつまでもこの土にとどまって、望みを果さでおくべきか」と呪いつづけて首切られた。
 ちょうどそれと同じ時刻。佐嘉城の御門を風の如く通りぬけ、お玄関へ急ぎ行く僧がある。その姿格好、斬られたはずの村了和尚そっくりである。はてな、と門番どもは怪しみながら、とがめ立てすることも忘れて見ていると、その僧が御本丸のお玄関に立ったと見えた一刹那、光茂公御妾腹のお子の一人がガゼン火のついたように泣き入って息絶えた。
 念のため天福院を取調べると、予定の時刻に村了のお仕置きはすんだとある。
 しかもこういう不祥事が日毎につづき、夜は火の玉が飛ぶとなると、もう偶然ではすまされない。さてこそ村了和尚の亡霊よと、寄るとさわると、このウワサで持ちきりの有様。光茂公もすておかれず、高伝寺など七ヶ寺と同格に円蔵院も優遇すべき旨仰出された
 
 それで不祥事はなくなったが、この余燼は意外な所に飛火して、くすぶった。
 村了死罪と定まるや、高伝寺の湛念和尚は「出家を御殺し遊ばさるものにて無之」と御赦免を願ったが、きかれなかったのでお暇を乞い、さっさと新庄の東禅寺〔佐賀市鍋島町新庄〕へ立ちのいた。
 再三なだめても坐りこんで動かばこそ。そこで「泣く子に地頭」の例にもれ、光茂公の方が折れて出て、湛念の隠居所として華蔵庵〔佐賀市大和町松瀬〕を御取立、十石御付け下された。

   『新佐賀夜話』(後藤道雄編 「新佐賀夜話」編纂会 1954:50-52頁)
・・・・・・・・・  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 不思議な話

2017年08月15日

火の玉物語(2)

 「火の玉」についての2回目です。
 現在の佐賀城として改修・拡張される村中城の南東に位置していた水ヶ江城に隣接する円蔵院に現れた「火の玉」についてのエピソードです。何とも「荒ぶる」怪火ですが、この頃の「火の玉」が持つ性格なのでしょうか。 

・・・・・・・・・

 その二
 円蔵院〔佐賀市中の館町〕は天文十四年(1545)正月、川上〔佐賀市大和町川上〕と祇園原〔神埼市神埼町尾崎〕で、馬場頼周に欺し討たれた龍造寺家純、周家、純家、頼純の菩提を弔うため、周家の未亡人慶誾尼が建立した寺で、城南、市民グランド付近にある。
 天文十六年(1547)夏の初め。この円蔵院にある豪覚法印の墓から怪しい火の玉が燃え上って、お城の上を飛び回り、お城には不祥事が続発した。百方手をつくしても効がない。そこで八戸の龍雲寺〔佐賀市八戸1丁目〕の大用和尚が乗り出して、卵塔の上の怪火を見つめながら、
 「種々の幻花は覚心より出ず。即今幻尽き覚尽きる時之何。代って言ふ、薪尽きれば火滅す」
と厳かに引導を渡した。これをわかり易く言いかえると、元来この豪覚法印は家純の二男。周家、純家、頼純とは兄弟なので、龍造寺家の前途について、おだやかならぬところがあったであろうが、周家の子隆信が家督を相続したからは、そう火のように怒らんでも良かろうが-と言ったものらしい。
 朗々たる引導の声に応じて怪火は杖の如く天に冲した。
 大用和尚は励声一番、
 「杖もまた無用」と大喝した。
 すると不思議や火は消えて、城中の不祥事もなくなった。

   『新佐賀夜話』(後藤道雄編 「新佐賀夜話」編纂会 1954:48-50頁)
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 円蔵院


 龍雲寺



  


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2017年08月11日

火の玉物語(1)

 それこそ私が子どもの頃、ン十年前になりますか、この時期になるとテレビでは怪談物がよく放映されていました。おどろおどろしい内容で、「ひーたれ(臆病者)」の私はトイレに一人で行くのが心細くなったものです。
 それに、お盆に親類が集まると、大人達が「火の玉」の話をしていましたね。何時、何処で、どんな「火の玉」を見たという話から、怪談めいた話にまで拡がって、「ひーたれ」餓鬼どもを心底恐ろしがらせていました。
 その頃は「火の玉」というより「燐が燃えるという言い方でしたが、これは実家の裏、川を挟んだS寺の墓地では「燐」がよく燃えるようで、ほとんどの大人が見たと言いますし、私も子どもの頃にそれらしいものを見たような記憶があります。
 佐賀でも「火の玉」の話が数多く伝えられているようで、時節柄と言えるかどうかわかりませんが、『新佐賀夜話』で紹介されている「火の玉」話を紹介することにします。

・・・・・・・・・
 国の名からして「火の国」と言うせいか、あるいは有明海の名物「不知火」の向うを張ってか、火の玉物語が少くない。
 その一
 藩祖鍋島直茂公が在府中、というから今から三百年ばかりの前の話。
 三の丸詰めの男六人、女八人が集団不義をした。女の数が男より多すぎるのは三角関係のせいであろうか。ともかくも、不義はお家の御法度である。藩公お国入りの当日、本庄村若宮〔佐賀市本庄町若宮〕で十三人とも打首に処せられた。が、討たれたものにして見ると言いぶんが大にあるのであろう。十三の集団火の玉が三の丸を飛び回り、果ては日中にも影を現わして、人々を震い上らせた。御前様のお耳に入り、祈祷や施餓鬼など仰せ出されたが、すこしも験がない。やむを得ず直茂公に申上げると、さすがは強気の直茂公
 「にっくき者ども。打首にいたしたくらいでは、わが腹立ちはまだやまぬに、迷うてまいるとは珍重珍重。ようし」
と、うっかり見つかると、生かされそうなケンマクなので、それっきり集団火の玉も出なくなった。
   『新佐賀夜話』(後藤道雄編 「新佐賀夜話」編纂会 1954:47-48頁)
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2017年08月08日

巨石巡拝記(18) 下田・幡石巡拝(4)-山城跡の発見(2)-

 いつもブログを見てくれている知り合いからの連絡がありました。
 「山城跡て書いとっばってん、県の出しとっ報告書で確認しとっかにゃ?」
 報告書と言われてもピンときませんが、
 「佐賀大学の教授になんさった宮武さんの報告書さい」
 と言われて、あーあの長いタイトルのやつね、と相づちを打ちましたが何しろ手元にありませんので県立図書館HPのデータベースで確認することに。
 県立図書館HPの「佐賀県文化財調査報告書」を見てみましたが残念ながら「No Image」との表示で未公開となっています。理由はよく分かりませんが、何とかなりませんかね?文化財課の方で是非ご検討をお願いします。知り合いによれば「佐賀県中近世城館調査のバイブル」だそうですから。
 やむなく、市立図書館まで出かけることに。

 タイトルがむやみに長いのですが、金敷城山城跡については『佐賀県文化財調査報告書第201集 佐賀県中近世城館跡緊急分布調査報告書 Ⅱ 佐賀県の中近世城館 第2集各説編1(三養基・神埼・佐賀地区)』(2013年3月刊)に掲載されています。本当にこのタイトルも何とかなりませんかね?
 金敷城山城については、本文309~311頁に記載されています。金敷城山城の縄張図と主郭内部の写真が掲載されていますが、縄張図は山頂周辺の遺構だけで、金敷城山城全体の構造については特に言及されていません。
 金敷城山城の基本事項として「弘治3年(1557)に起きた神代氏と龍造寺氏との「金敷峠合戦」における陣所と見られる。当初、龍造寺方の臨時要塞だった向きがあるが、縄張は神代方の防備を基軸としている」(309頁)と説明されています。

 知りたかった「幡石」近くの「大梅山城跡」あるいは「金敷山城の大梅山出丸跡」については何も記載はありませんが、「(龍造寺)隆信本軍は嘉瀬川(河上川)を北上して該城西麓に近い「広坂」にまで進軍したとされる」(309頁)との説明があります。つまり、神代方にとってはこの大梅山の場所に何らかの軍事的施設を設けることには意味があったことになります。

堀切上の大石
 堀切上の大石

 広坂

  


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2017年08月04日

巨石巡拝記(17) 下田・幡石巡拝(3)-山城跡の発見-

 「幡石」には今年5月下旬にも行きましたが、7月下旬の暑い日、佐賀の最高気温は36度でした、に再度登って見ることにしました。
 案の定、「幡石」周囲のシダ類は高さをさらに増していますので「幡石」の下まで降りるのは断念しましたが、周囲をよく見ると「幡石」の下に、幅は狭いようですが道があり、そこまで降りれば下から「幡石」をじっくりと見ることができそうです。戦前の雑誌や絵葉書に掲載されている「幡石」の写真はその道辺りから撮影されたように思われます。次の機会に尾根の先端から迂回してその道に降りてみるつもりです。
 なお、「幡石」は「梅野の磨崖仏」辺りから確認することができます。 

 「幡石」から鉄塔近くまで戻る道すがら地形を子細に見てみると、前回の時も感じていたことですが、この「幡石」の南東側、鉄塔から伸びる尾根の標高180~200㍍辺り、長さ50~60㍍に亘って山城らしい施設が幾つか確認できました。

 ・数段の曲輪
 ・尾根を横切る堀切
 ・斜面を一直線に堀くぼめた竪堀

 曲輪には大石を巧みに配置しています。
 曲輪と思われる平坦地は、畑や山林として開墾した形跡はありませんし、堀切は斜面で途切れていますので「道」ではありませんし、竪堀もかなり立派です。
 また、この細長い尾根は金敷城山頂まで伸びており、金敷山城の全容は分かりませんが、城の西側、河上川に伸びた尾根の先端に位置するため、川沿いの状況が把握できる絶好の場所です。
 金敷城山が山城としてどのような構造を持っているのか分かりませんが、今後金敷城山周辺に足を延ばすときにはそのことも頭に入れて歩いてみようと思います。
 
 今後は、大梅山城跡あるいは金敷山城の大梅山出丸跡とでも呼びましょうか。

大梅山城
 曲輪に配置された大石

大梅山城
 堀切

大梅山城
 竪堀

大梅山城
 「幡石」から対岸を望む  


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2017年08月01日

玉響現象(1) 天の岩門(1)

 巨石パークの巡拝グループ「カエル会」の会報「巨石パークの奇跡」には、巨石パーク内で撮影された「神秘な光」や「不思議」と形容される現象が紹介されていますが、天の岩門での最近の現象は以下の会報で見ることができできます。

 「巨石パークの奇跡」211号(平成29年(2017)4月13日刊)
 https://blogs.yahoo.co.jp/sagamanga/39784483.html

 「巨石パークの奇跡」219号(平成29年(2017)6月5日刊)
 https://blogs.yahoo.co.jp/sagamanga/39838784.html
 
 確かに、巨石パークの巨石等を撮影するとさまざまな「光球」類似の現象が画像に写り込むことがあります。しかしながらその「光球」については、このブログでも以下のように説明したことがあります。ちょっと長いですけど再度掲載します。

 「このブログで紹介する「光球」が写っている画像は、強い光=「光源」となるものが画面の周辺にあり、ほとんどが逆光気味です。光を遮る暗い障害物(巨石、樹木、建物等)が前面(画面中央部)にある状況で明るい「光球」が、それほど暗くないものが前面(画面中央部)にある状況で淡い「光球」が発生します。「光球」の明るさと前面(画面中央部)の明るさは反比例するようです。最近、このような現象が気になってテレビ画面を見ていると、このブログで紹介するような「光球」が写ることがよくあります。恐らく、レンズの特性による「ゴースト」だという理解で99.9%問題ないと思います。」

 と言いながらも「光球」が映り込んだ画像が増えてきました。
 「ゴースト」であろうと理解した上で、天の岩門で撮影した画像に写り込んだ「光球」を紹介していきたいと思います。基本的には尾根筋、東側から天の岩門上部を撮影していますので、全て逆光気味です。
 今回は青っぽいものを紹介しますが、赤っぽいもの白っぽいものが映り込むこともあります。緑があれば光の三原色が揃いますね。

天の岩門
天の岩門
 淡いぼんやりとした青い「光球」

天の岩門
 青色の三層構造の円盤状の「光球」

天の岩門
 シャワー状の光と左下に向かって伸びる長半円状の「光球」
  


Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神