2016年11月11日
川上の石神(4)河上神社の上宮はどこ?
地元の教育委員会が発行した『大和町史』(大和町史編さん委員会編 大和町教育委員会 1975:113頁)では、河上神社の上宮について「下田の石神群」と「淀姫社〔河上神社〕の西方山上」の二つの説を紹介しています。
どちらも地元では「上宮」と呼ばれており、河上神社による祭祀が行われていたようです。歴史的、政治的な理由によって上宮が複数となることもあり得ますが、ここは江戸時代に書き残された史料で確認してみることにします。
このことについて大きな決め手となるであろう史料に佐賀藩が編纂した『寺社差出』〔「真言宗由緒(実相院并末寺 御建寺 無縁寺)〕があります。この『寺社差出』は、佐賀県立図書館が刊行している『佐賀県近世史料』第十編第一巻(佐賀県立図書館編集・発行 2010/03/20:235-236頁)に翻刻されていますので、活字で読むことができます。
その中の「川上淀姫大明神大社」(河上神社)についての説明に、
一 上宮石祠有り、木鳥居一ヶ所御神領山西ノ峰ニ有り、御修覆所也、春彼岸中日当院より祭リ有之候
一 造花〔化ヵ〕社大石有り、佐嘉郡梅野御山方之内
とあります。『寺社差出』が作成された江戸時代には「上宮」と「造花〔化ヵ〕社」(造化大明神)は別物であり、上宮は「御神領山西ノ峰」つまり「淀姫社〔河上神社〕の西方山上」だと考えられていたようです。
河上神社では、古宮=上宮とは考えられていなかったということでしょうか。
いずれにせよ、どちらも河上神社(与止日女神社)により祭祀が行われていたことは間違いないようです。
なお、河上神社(与止日女神社)には、上宮・中宮・下宮がそれぞれ存在します。

河上神社の上空
どちらも地元では「上宮」と呼ばれており、河上神社による祭祀が行われていたようです。歴史的、政治的な理由によって上宮が複数となることもあり得ますが、ここは江戸時代に書き残された史料で確認してみることにします。
このことについて大きな決め手となるであろう史料に佐賀藩が編纂した『寺社差出』〔「真言宗由緒(実相院并末寺 御建寺 無縁寺)〕があります。この『寺社差出』は、佐賀県立図書館が刊行している『佐賀県近世史料』第十編第一巻(佐賀県立図書館編集・発行 2010/03/20:235-236頁)に翻刻されていますので、活字で読むことができます。
その中の「川上淀姫大明神大社」(河上神社)についての説明に、
一 上宮石祠有り、木鳥居一ヶ所御神領山西ノ峰ニ有り、御修覆所也、春彼岸中日当院より祭リ有之候
一 造花〔化ヵ〕社大石有り、佐嘉郡梅野御山方之内
とあります。『寺社差出』が作成された江戸時代には「上宮」と「造花〔化ヵ〕社」(造化大明神)は別物であり、上宮は「御神領山西ノ峰」つまり「淀姫社〔河上神社〕の西方山上」だと考えられていたようです。
河上神社では、古宮=上宮とは考えられていなかったということでしょうか。
いずれにせよ、どちらも河上神社(与止日女神社)により祭祀が行われていたことは間違いないようです。
なお、河上神社(与止日女神社)には、上宮・中宮・下宮がそれぞれ存在します。
河上神社の上空
Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 川上有石神
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