2017年03月03日
佐賀市大和町梅野の「磨崖仏」
昨年、国道263号の都渡城と下田の途中、山側の道路沿いの雑木林が伐採されて何か工事が始まっているのに気付きました。
あまり知られていませんが、この工事区間の北端には「磨崖仏」があります。唐津側には「鵜殿岩屋」(唐津市相知町)に代表されるように多くの磨崖仏が存在しますが、佐賀平野側にはあまり存在していません。

対岸から見た「磨崖仏」
もう数年前になりますが、この辺りの筑前街道を歩いた際にその存在に気付き、気にはなっていました。今回は周囲の雑木や雑草もきれいに切り払われ、その姿がよく分かります。
制作されたのは、「磨崖仏」前面の基壇によれば、延宝2年(1674)3月(季春)18日です。当時の佐賀藩主は第2代鍋島光茂であり、将軍は第4代家綱の時代でした。
平成29年(2017)2月、久し振りに工事現場を通りかかると、写真撮影の準備なのかきれいに清掃され、「磨崖仏」の基礎あたりが堀くぼめられていました。恐らく、佐賀市か県の機関による発掘調査が実施されているようです。

「磨崖仏」全景
「磨崖仏」と言っていますが、画像を見ると分かりますが仏の姿ではなく「南無大悲観世音菩薩」という「九字名号」が彫られています。ただし、上部には「光背(頭光)」、下部には「蓮華座」が配されています。つまり、「九字名号本尊」の形を呈しています。このため「磨崖仏」としています。頭上には三枚の板石が「庇」として設けられています。

「磨崖仏」全体

階段の状況

「庇」を横から見る
また、「磨崖仏」前面の基壇には年号とともに「観音経」の偈の一部が刻まれています。
具一切功徳(ぐいっさいくどく)
慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)
福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)
是故応頂礼(ぜこおうちょうらい)

基壇の「観音経」偈
さらに、二年後の延宝4年(1676)8月24日に灯籠2基が建立されています。
この「磨崖仏」は筑前街道に面していますので、筑前街道を往来する人びとにとって常に仰ぎ見られる存在だったのでしょう。
「葉隠」の口述者として知られている山本常朝が、松瀬(佐賀市大和町松梅)の華蔵庵の湛念和尚に仏道を学ぶため、あるいは下田に閑居する石田一鼎を度々訪れていますが、すでにその時にはこの「磨崖仏」は存在しており、手を合わせていたかも知れませんね。
あまり知られていませんが、この工事区間の北端には「磨崖仏」があります。唐津側には「鵜殿岩屋」(唐津市相知町)に代表されるように多くの磨崖仏が存在しますが、佐賀平野側にはあまり存在していません。
対岸から見た「磨崖仏」
もう数年前になりますが、この辺りの筑前街道を歩いた際にその存在に気付き、気にはなっていました。今回は周囲の雑木や雑草もきれいに切り払われ、その姿がよく分かります。
制作されたのは、「磨崖仏」前面の基壇によれば、延宝2年(1674)3月(季春)18日です。当時の佐賀藩主は第2代鍋島光茂であり、将軍は第4代家綱の時代でした。
平成29年(2017)2月、久し振りに工事現場を通りかかると、写真撮影の準備なのかきれいに清掃され、「磨崖仏」の基礎あたりが堀くぼめられていました。恐らく、佐賀市か県の機関による発掘調査が実施されているようです。
「磨崖仏」全景
「磨崖仏」と言っていますが、画像を見ると分かりますが仏の姿ではなく「南無大悲観世音菩薩」という「九字名号」が彫られています。ただし、上部には「光背(頭光)」、下部には「蓮華座」が配されています。つまり、「九字名号本尊」の形を呈しています。このため「磨崖仏」としています。頭上には三枚の板石が「庇」として設けられています。
「磨崖仏」全体
階段の状況
「庇」を横から見る
また、「磨崖仏」前面の基壇には年号とともに「観音経」の偈の一部が刻まれています。
具一切功徳(ぐいっさいくどく)
慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)
福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)
是故応頂礼(ぜこおうちょうらい)
基壇の「観音経」偈
さらに、二年後の延宝4年(1676)8月24日に灯籠2基が建立されています。
この「磨崖仏」は筑前街道に面していますので、筑前街道を往来する人びとにとって常に仰ぎ見られる存在だったのでしょう。
「葉隠」の口述者として知られている山本常朝が、松瀬(佐賀市大和町松梅)の華蔵庵の湛念和尚に仏道を学ぶため、あるいは下田に閑居する石田一鼎を度々訪れていますが、すでにその時にはこの「磨崖仏」は存在しており、手を合わせていたかも知れませんね。
Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 梅野の「磨崖仏」
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