2018年08月28日
佐賀市巨勢町に前方後円墳があった!?(3)
知り合いなどから色々と教えていただきましたが、法務局で地籍図を請求してきました。
何しろ法務局で地籍図を請求するのは久し振りでしたので、先ずは受付で請求方法について確認です。しかしながらその「小山」=「茶臼山」が所在した場所の地番がわかりませんので、担当の方の指示で、大体の場所の地番を指定して請求しました。
先日ブログで紹介した後、城下絵図や地図等であーでもない、こーでもないと検討しましたが、モラージュ佐賀とマルハン佐賀店の間を南流している「三間川放水路」の位置がポイントになりそうでした。以前、モラージュ佐賀のMr.Maxの辺りと報告していましたが、その北側、佐賀市巨勢町大字牛島375-1番地で請求しました。当然、一番古い、明治時代の地籍図です。
しばらくして出していただいた地籍図、法務局では「地図」、は残念ながらちょと違うようで、よく見ると「茶臼山」の東側、水路を夾んだ場所のようでした。ただし、今はもうない長崎街道と現在の構口から高尾に向かう国道264号が記載されていますので大凡の位置関係がわかりました。
それで、この「地図」の西側に隣接する、現在マルハン佐賀店がある佐賀市巨勢町大字牛島761-1番地を請求しました。2枚の「地図」を検討すると、マルハン佐賀店そのものではなく、細い水路を夾んで東側にあった、南北に細長く延びた場所である756、752-2番地が「茶臼山」が所在した場所のようでした。「茶臼山」が所在した場所は2筆の「田」に分割されていましたので、「茶臼山」の輪郭は残っていません。うーむ、残念。
この地図は明治22年の地図でしたから、そのころまでには「茶臼山」は切り崩されていたのだと思われます。また、図録「御城下絵図に見る佐賀のまち」の「巨勢町にあった孤高の塚の謎」には「慶長の絵図と寛永の絵図(資料No3)だけに見られ、以後の絵図には見られなくなります」とありますので、切り崩されたのは江戸時代の寛永期(1624-1645)以降なのでしょう。
「茶臼山」の位置
何しろ法務局で地籍図を請求するのは久し振りでしたので、先ずは受付で請求方法について確認です。しかしながらその「小山」=「茶臼山」が所在した場所の地番がわかりませんので、担当の方の指示で、大体の場所の地番を指定して請求しました。
先日ブログで紹介した後、城下絵図や地図等であーでもない、こーでもないと検討しましたが、モラージュ佐賀とマルハン佐賀店の間を南流している「三間川放水路」の位置がポイントになりそうでした。以前、モラージュ佐賀のMr.Maxの辺りと報告していましたが、その北側、佐賀市巨勢町大字牛島375-1番地で請求しました。当然、一番古い、明治時代の地籍図です。
しばらくして出していただいた地籍図、法務局では「地図」、は残念ながらちょと違うようで、よく見ると「茶臼山」の東側、水路を夾んだ場所のようでした。ただし、今はもうない長崎街道と現在の構口から高尾に向かう国道264号が記載されていますので大凡の位置関係がわかりました。
それで、この「地図」の西側に隣接する、現在マルハン佐賀店がある佐賀市巨勢町大字牛島761-1番地を請求しました。2枚の「地図」を検討すると、マルハン佐賀店そのものではなく、細い水路を夾んで東側にあった、南北に細長く延びた場所である756、752-2番地が「茶臼山」が所在した場所のようでした。「茶臼山」が所在した場所は2筆の「田」に分割されていましたので、「茶臼山」の輪郭は残っていません。うーむ、残念。
この地図は明治22年の地図でしたから、そのころまでには「茶臼山」は切り崩されていたのだと思われます。また、図録「御城下絵図に見る佐賀のまち」の「巨勢町にあった孤高の塚の謎」には「慶長の絵図と寛永の絵図(資料No3)だけに見られ、以後の絵図には見られなくなります」とありますので、切り崩されたのは江戸時代の寛永期(1624-1645)以降なのでしょう。
「茶臼山」の位置
Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 遺跡・史跡
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