2017年02月10日
佐賀市鍋島町蛎久に所在した満性院のこと
先日、満性院(まんしょういん:佐賀市鍋島町蛎久)というお寺があった場所が分からないだろうかと尋ねられました。嘉永7年(1854)、幕末の第10代佐賀藩主鍋島直正公が今の佐賀市大和町川上に設けた大砲の試射場まで佐賀城から出かける途中に立ち寄った場所らしい。
その試射場は「大久保台場」と呼ばれていますが詳しくは以下で。
大砲演習場跡(さがの歴史・文化お宝帳)
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2243
いつもの手順で探してみることに。まず、佐賀県立図書館データベースの「古地図・絵図データベース」に該当地区の絵図がないか検索してみます。が、残念ながらヒットしません。
それではと『鍋島町史』を見ると、明治初期には蛎久周辺の「小学校」として利用されていたようですが場所はわかりません。
もしかしたら地名として残っているかもしれないと思い、九州大学が調査した地名(しこ名)集成である『二千人が七百の村で聞き取った二万の地名、しこ名-佐賀平野の歴史地名地図稿-』(平成13年5月10日発行 花書院)をみると…、ありました!「満しょう院」という記載ですが、「満性院」で間違いないでしょう。最近まで地名として地元で伝承されていたようです。
大体の場所が分かりましたので国土地理院HPで「満しょう院」のあたりの空中写真を探します。すると、昭和23年(1948)10月31日撮影の空中写真に参道と寺院敷地らしい地割りが写っています。この場所でまず間違いないようです。
国土地理院地図・空中写真サービス
http://mapps.gsi.go.jp/
蛎久地区の空中写真(LSA-R420-90部分 国土地理院HP)
藩政期の文献がないか調べてみると、佐賀県立図書館刊行の『佐賀県近世史料』第10編第1巻(平成22年3月20日発行 239-240頁)に真言宗の川上実相院末寺として記載されています。
さて、具体的な場所ですが、蛎久にある福地石油医大東給油所の道路を隔てた南側民家の敷地に当たります。参道は有料老人ホームさつき苑敷地西側に細長い水田として残っています。
廃寺となった経緯はよく分かりませんが、「廃仏毀釈」による影響、後継者不在、経営不振等の理由が考えられますが、院内に野廟・墓所がなかったことが関係するかも知れません。
ちょっとした謎解きのゲームのようですね。
その試射場は「大久保台場」と呼ばれていますが詳しくは以下で。
大砲演習場跡(さがの歴史・文化お宝帳)
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2243
いつもの手順で探してみることに。まず、佐賀県立図書館データベースの「古地図・絵図データベース」に該当地区の絵図がないか検索してみます。が、残念ながらヒットしません。
それではと『鍋島町史』を見ると、明治初期には蛎久周辺の「小学校」として利用されていたようですが場所はわかりません。
もしかしたら地名として残っているかもしれないと思い、九州大学が調査した地名(しこ名)集成である『二千人が七百の村で聞き取った二万の地名、しこ名-佐賀平野の歴史地名地図稿-』(平成13年5月10日発行 花書院)をみると…、ありました!「満しょう院」という記載ですが、「満性院」で間違いないでしょう。最近まで地名として地元で伝承されていたようです。
大体の場所が分かりましたので国土地理院HPで「満しょう院」のあたりの空中写真を探します。すると、昭和23年(1948)10月31日撮影の空中写真に参道と寺院敷地らしい地割りが写っています。この場所でまず間違いないようです。
国土地理院地図・空中写真サービス
http://mapps.gsi.go.jp/
蛎久地区の空中写真(LSA-R420-90部分 国土地理院HP)
藩政期の文献がないか調べてみると、佐賀県立図書館刊行の『佐賀県近世史料』第10編第1巻(平成22年3月20日発行 239-240頁)に真言宗の川上実相院末寺として記載されています。
さて、具体的な場所ですが、蛎久にある福地石油医大東給油所の道路を隔てた南側民家の敷地に当たります。参道は有料老人ホームさつき苑敷地西側に細長い水田として残っています。
廃寺となった経緯はよく分かりませんが、「廃仏毀釈」による影響、後継者不在、経営不振等の理由が考えられますが、院内に野廟・墓所がなかったことが関係するかも知れません。
ちょっとした謎解きのゲームのようですね。
Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 遺跡・史跡
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