2017年10月31日
佐賀市天祐1丁目(中折)にあった御茶屋跡(3)
西側に墓地があったようですがお寺があったという話は聞かれたことはありませんか。
「うーん、寺の在ったごっちゃいは知らんばってん、野墓じゃなかごとしとったけんお寺のあったっちゃい可笑しゅうはなか。西にあった墓所は、北西の周いよいか少―し、1㍍位かにゃ、高っか所の、もう竹藪になっとって子供の遊び場て言うか、墓石の結構あった。この辺のニワトイ(鶏)の逃げて、その墓所ん所で卵ば生んだいしよった。南北で20㍍、東西で10㍍ばっかいかにゃー、あとは田んぼやったばい。墓所の南側の田んぼが一段低っかった。水がかいの悪かったけん、北側から木の樋で引いてあった」
以前は南側からの橋が架かっていましたか?
「橋は、そけあっスーパーに行く橋、昔は土橋のあってから、黒橋て名前やったばってん。お宅の言うとこにゃ橋はなかったにゃー、あったない一段低っか田ん中さい架かっとたとやろかにゃー」
では、お墓はどんな感じでしたか。
「坊―さんの墓も北側に幾つじゃいあって、その北側に結構太か藪椿のあった。墓石は固まらじバランバランあったろー」
今、世尊寺のお墓の中、西南の角に寄せてあるお墓ですよね。
「そがん」
鍋島藩のお殿様のお墓がありますし、星野家のお墓もありますけど。
「いんにゃ、そがんとは知らんばってん、あの蓋(扉)の付いとっと(星野家)は、墓の中でん南側にあってから子どんの何じゃい隠したいして遊びよった。昔ん事けんもうあんまい覚えとらん」
いえいえ沢山教えていただきありがとうございました。
さて、絵図には当盛庵と書かれていますが「寺社差出 曹洞宗由緒 一」では、太陽山東盛庵(曹洞宗 佐嘉郡中折村)とされています。
寄せられた墓の状況は以下の画像を見てください。中央のは、恐らく寄せる時に世尊寺さんで建てられたもので、右側(北側)が第3代藩主鍋島綱茂公の、左側(南側)が星野家のものです。

お墓の状況
第3代藩主鍋島綱茂について
http://www.nabeshima.or.jp/main/33.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E7%B6%B1%E8%8C%82
南北に当盛庵(東盛庵)の歴代住持のものと思われる無縫塔が8基、その他の墓石(方柱墓)が20基程あります。
綱茂公の墓石は笠付の方柱墓だったと思われますが、現在笠は残っていません。或いは擬宝珠状のものがあったかもしれませんね。表面には戒名「玄梁院殿卓巌道印大居士」のみが刻まれ、建立の年月日も建立者もありません。
まだ、当盛庵(東盛庵)の由緒を確認していませんが、綱茂公がこの当盛庵(東盛庵)に縁があるのか、星野家で自分たちが仕えていた綱茂公の墓を「密かに」建立したのか、いろいろ想像してみるのも面白いですね。
星野家の石祠形墓石側面には享保15年(1730)1月22日と刻まれています。綱茂公が亡くなったのが宝永3年(1707)ですから何やら関係がありますよね。
「うーん、寺の在ったごっちゃいは知らんばってん、野墓じゃなかごとしとったけんお寺のあったっちゃい可笑しゅうはなか。西にあった墓所は、北西の周いよいか少―し、1㍍位かにゃ、高っか所の、もう竹藪になっとって子供の遊び場て言うか、墓石の結構あった。この辺のニワトイ(鶏)の逃げて、その墓所ん所で卵ば生んだいしよった。南北で20㍍、東西で10㍍ばっかいかにゃー、あとは田んぼやったばい。墓所の南側の田んぼが一段低っかった。水がかいの悪かったけん、北側から木の樋で引いてあった」
以前は南側からの橋が架かっていましたか?
「橋は、そけあっスーパーに行く橋、昔は土橋のあってから、黒橋て名前やったばってん。お宅の言うとこにゃ橋はなかったにゃー、あったない一段低っか田ん中さい架かっとたとやろかにゃー」
では、お墓はどんな感じでしたか。
「坊―さんの墓も北側に幾つじゃいあって、その北側に結構太か藪椿のあった。墓石は固まらじバランバランあったろー」
今、世尊寺のお墓の中、西南の角に寄せてあるお墓ですよね。
「そがん」
鍋島藩のお殿様のお墓がありますし、星野家のお墓もありますけど。
「いんにゃ、そがんとは知らんばってん、あの蓋(扉)の付いとっと(星野家)は、墓の中でん南側にあってから子どんの何じゃい隠したいして遊びよった。昔ん事けんもうあんまい覚えとらん」
いえいえ沢山教えていただきありがとうございました。
さて、絵図には当盛庵と書かれていますが「寺社差出 曹洞宗由緒 一」では、太陽山東盛庵(曹洞宗 佐嘉郡中折村)とされています。
寄せられた墓の状況は以下の画像を見てください。中央のは、恐らく寄せる時に世尊寺さんで建てられたもので、右側(北側)が第3代藩主鍋島綱茂公の、左側(南側)が星野家のものです。
お墓の状況
第3代藩主鍋島綱茂について
http://www.nabeshima.or.jp/main/33.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E7%B6%B1%E8%8C%82
南北に当盛庵(東盛庵)の歴代住持のものと思われる無縫塔が8基、その他の墓石(方柱墓)が20基程あります。
綱茂公の墓石は笠付の方柱墓だったと思われますが、現在笠は残っていません。或いは擬宝珠状のものがあったかもしれませんね。表面には戒名「玄梁院殿卓巌道印大居士」のみが刻まれ、建立の年月日も建立者もありません。
まだ、当盛庵(東盛庵)の由緒を確認していませんが、綱茂公がこの当盛庵(東盛庵)に縁があるのか、星野家で自分たちが仕えていた綱茂公の墓を「密かに」建立したのか、いろいろ想像してみるのも面白いですね。
星野家の石祠形墓石側面には享保15年(1730)1月22日と刻まれています。綱茂公が亡くなったのが宝永3年(1707)ですから何やら関係がありますよね。
Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 遺跡・史跡
承認後、受け付けます
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
|
|
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。 |