2017年01月27日
下田の石神の「発見」(1)
下田の石神の中でも造化大明神では明治20年(1887)頃まで河上神社による祭祀が行われていたようですが、地元以外では次第にその存在が忘れられていたようです。
祭祀が途切れて50年ほど経過した昭和10年(1935)1月、佐賀新聞紙上に「学界の驚異! 巨石文化の一大遺蹟を発見 松梅村下田の石神群」という見出しでセンセンショーナルに取り上げられ、翌々月の3月までその関連記事が連続して掲載されることになります。
断続的になるかもしれませんが82年前に佐賀で「大騒動」を起こした佐賀新聞の記事をこのブログで追々紹介することにより、その「発見」による地元佐賀の盛り上がりを知っていただきたいと思います。
同月29日の記事では十年前、大正から昭和になる頃、には「発見」されていたということですから、記事として公表されるまで現地での確認や文献上の調査を進められていたようです。
なお、新聞紙上での巨石の名称や読み、あるいは位置づけが現在と少し異なります。
例えば、石神は「せきしん」「しゃくしん」、蛙石は「かわづいし」と呼ばれ、蛙石が「奥の院」という位置づけです。そのことについては地元の古老の方々のお話を聞きながら今後確認し、元に戻すべきものは当時のものに修正すべきであろうと思います。
そのあたりに留意しながらお読みいただければと思います。
まず、最初の「発見」記事である昭和10年(1935)1月19日の記事から紹介します。
*漢字は原則として常用漢字に変えていますが、当時の雰囲気を残すように送り仮名等はそのままにしていますし、縦書きから横書きに変更しています。原文にはルビがありますが、必要と思われるものについてのみ〔 〕で示しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
学界の驚異! 巨石文化の一大遺蹟を発見 松梅村下田の石神群
◇造化大明神、天ノ岩門◇
◇神籠石等十数ヶ所◇
全国稀に見る巨石文化の一大遺蹟発見=佐賀郡松梅村大字梅野字下田は和銅年間の勧進に係る肥前風土記にも世田姫海神と称する石神ありとして知られてゐるが、最近に至り古風土記に称する石神のほか、神籠石、天ノ岩門、烏帽子岩、神頭石、御座石、御船石其他十余ヶ所の石神群あることを発見した。
右石神群は、何れも天然の岩窟にあらず少くとも三千年以上古代民族が人工を以て築造したる巨石文化の貴重なる遺蹟であって、全山悉く石神群をなせるは全国は勿論世界的にも稀に見るものであらう。而してこの石神は古代民族が造化の神として信仰したもので総て男神岩、女神岩より成り其状恰も家の如く、岩下は通行自由なる洞窟をなし、神籠石の男神岩は幅五間四方五十畳敷、厚さ二間程あり、また天ノ岩門、烏帽子岩、神頭石等の男岩は厚さ三間乃至五間円錐状にして、長さ十間乃至十五間に達するものもあり、斯る巨石が人力を以て如何にして築造されたかは、全く驚嘆に値する。
今回、端なくも之を発見したるに付ては学術的研究の資料に供し、また永久保存の必要あり。更に世界に誇るべき一大遺蹟を普く世に宣伝する為発見者たる本社記者蒲原夢涯氏は、十八日古川知事宛史蹟名勝調査方を申請したが、一方地元村民に於てはこの遺蹟名勝地の観光客に対し案内役等諸種の便宜を与ふる筈である。
「佐賀新聞」(昭和10年(1935)1月19日(土)朝刊:2頁)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上の記事にあるように、巨石群=石神群は「古代民族が人工を以て築造したる巨石文化の貴重なる遺蹟」だという位置づけです。この巨石文化とする評価はそのまま受け継がれ、「古代遺跡」という新たな観光資源として喧伝されることになっていきます。

嘉瀬川(川上川)対岸よりの下田の巨石群
祭祀が途切れて50年ほど経過した昭和10年(1935)1月、佐賀新聞紙上に「学界の驚異! 巨石文化の一大遺蹟を発見 松梅村下田の石神群」という見出しでセンセンショーナルに取り上げられ、翌々月の3月までその関連記事が連続して掲載されることになります。
断続的になるかもしれませんが82年前に佐賀で「大騒動」を起こした佐賀新聞の記事をこのブログで追々紹介することにより、その「発見」による地元佐賀の盛り上がりを知っていただきたいと思います。
同月29日の記事では十年前、大正から昭和になる頃、には「発見」されていたということですから、記事として公表されるまで現地での確認や文献上の調査を進められていたようです。
なお、新聞紙上での巨石の名称や読み、あるいは位置づけが現在と少し異なります。
例えば、石神は「せきしん」「しゃくしん」、蛙石は「かわづいし」と呼ばれ、蛙石が「奥の院」という位置づけです。そのことについては地元の古老の方々のお話を聞きながら今後確認し、元に戻すべきものは当時のものに修正すべきであろうと思います。
そのあたりに留意しながらお読みいただければと思います。
まず、最初の「発見」記事である昭和10年(1935)1月19日の記事から紹介します。
*漢字は原則として常用漢字に変えていますが、当時の雰囲気を残すように送り仮名等はそのままにしていますし、縦書きから横書きに変更しています。原文にはルビがありますが、必要と思われるものについてのみ〔 〕で示しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
学界の驚異! 巨石文化の一大遺蹟を発見 松梅村下田の石神群
◇造化大明神、天ノ岩門◇
◇神籠石等十数ヶ所◇
全国稀に見る巨石文化の一大遺蹟発見=佐賀郡松梅村大字梅野字下田は和銅年間の勧進に係る肥前風土記にも世田姫海神と称する石神ありとして知られてゐるが、最近に至り古風土記に称する石神のほか、神籠石、天ノ岩門、烏帽子岩、神頭石、御座石、御船石其他十余ヶ所の石神群あることを発見した。
右石神群は、何れも天然の岩窟にあらず少くとも三千年以上古代民族が人工を以て築造したる巨石文化の貴重なる遺蹟であって、全山悉く石神群をなせるは全国は勿論世界的にも稀に見るものであらう。而してこの石神は古代民族が造化の神として信仰したもので総て男神岩、女神岩より成り其状恰も家の如く、岩下は通行自由なる洞窟をなし、神籠石の男神岩は幅五間四方五十畳敷、厚さ二間程あり、また天ノ岩門、烏帽子岩、神頭石等の男岩は厚さ三間乃至五間円錐状にして、長さ十間乃至十五間に達するものもあり、斯る巨石が人力を以て如何にして築造されたかは、全く驚嘆に値する。
今回、端なくも之を発見したるに付ては学術的研究の資料に供し、また永久保存の必要あり。更に世界に誇るべき一大遺蹟を普く世に宣伝する為発見者たる本社記者蒲原夢涯氏は、十八日古川知事宛史蹟名勝調査方を申請したが、一方地元村民に於てはこの遺蹟名勝地の観光客に対し案内役等諸種の便宜を与ふる筈である。
「佐賀新聞」(昭和10年(1935)1月19日(土)朝刊:2頁)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上の記事にあるように、巨石群=石神群は「古代民族が人工を以て築造したる巨石文化の貴重なる遺蹟」だという位置づけです。この巨石文化とする評価はそのまま受け継がれ、「古代遺跡」という新たな観光資源として喧伝されることになっていきます。

嘉瀬川(川上川)対岸よりの下田の巨石群
Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神
承認後、受け付けます