2017年07月11日
下田の石神の「発見」(10) 「肥前史談」より(2)
先ずは連載1回目をお読みください。
本文は、風土記における紹介、造化大明神、幡石、烏帽子石の紹介、「登山口」である禅宗(黄檗宗)の古刹大梅山新清水寺の紹介から構成されています。
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巨石文化の大遺蹟
松梅村下田山中の石神群(一)
久保生
世にも珍らしき三千年前の巨石文化を語る一大遺蹟=古代民族の信仰の対象たる石神群が我が佐賀郡松梅村下田の山中に近頃発見せられ今や各方面に多大のセンセーションを捲き起すに至つた。肥前風土記に曰く「川上有石神曰世田姫海神云々」と。
風土記の編纂年代に就ては種々説あるが、奈良朝元明天皇和銅六年五月甲子の制に「畿内七道諸国郡郷名著好字其郡内所生銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具録色目及土地沃塉山川原野名号所由又古老相伝旧聞異事載于史籍言上」とあるに徴すれば即ち奈良朝時代(今を去る千二百数十年前)と見るのが至当であらう。
尤も風土記の記事の多くは動もすれば一概に口碑伝説として取扱はるゝ傾なきにあらず。併しそれが今眼前に事実として現はれ来つたと云ふのは何人も驚異の眼をみはる所である。
是に於て去る一月には県政記者団が見学に赴き、二月には関総務部長一行、肥前史談会員等の団体見学続て県史蹟調査員の出張となり其の都度余は参加し、幾度も踏査し、大に得る所があつたが以下案内を兼ねて記述し、更に考古学上の見地から少しく卑見を陳べて見たいと思ふ。
巨巌が樹林の間から
佐賀から川上街道を北上し、都渡城から更に川上川の清流に沿ひ日親上人の遺蹟や加藤清正槍先の題目で有名なる宝塔院の前を過ぎ、渡月橋畔に出づれば直ぐ下田の部落新清水門前で此処は即ち登山口である。此の下田は三面山を以て囲繞せられ、僅に西南の一方川に沿うて湾曲し、稍々平地が開けてゐる位で登山口に立てば眼前に金敷山(四二五米)に続て家石山(三二四米)等が横はり、呼べば応へんとし、そして鬱蒼たる樹林の間からは幾つとなく巌角が露れ其の家石山中腹にあるのが即ち本体の石神だそうで、地方の人々は造化大明神と呼んでゐる。又少し隔てた右手の山腹には白旗を立てたやうな形をなした巨巌が見へるのは、往昔造化大明神が何処からか天降りになる時押立てゝ来た白旗を其の巌に立掛けたのがそれである奇しき伝説さへあるに、十数年前には其の上空を真鶴が舞うてゐたこともあると云つてゐる。更に左手には烏帽子の形をなしたのや或は両断してそれを合せたやうのや其他幾つもの奇巌怪石が点在し、攀登に先ちて漫ろに好奇心をそゝる。
大梅山新清水寺
新清水門前から上ること一丁内外にして大梅山新清水寺だ。石神とは別に関係はないやうであるけれども此処は登山者がどうしても一度は足を停めねばならぬ格好の地位にあるから紹介する必要がある。
此の寺は藤津郡古枝村普明寺と法縁関係があり、其の創建は詳かでないが開山は聚海禅師法名際祥、宝暦六年八月十三日遷化されたとあるから之から推定せば享保或は元文年間であらう。而して聚海禅師の法系は、普明寺開山桂巌禅師-霊堂-界輪-聚海(即ち大梅開山)-義文-乾外(普明寺第十四代)-貫通-不昧-禅機-敦宗(佐賀市三溝大興寺住理職中島敦宗師)となつてゐる。其の聚海禅師が礼服着用柱杖子を携へ、椅子に靠りし肖像画は普明寺第十八世の賛があり、今尚ほ普明寺塔頭宝泉寺に珍蔵されてゐる。賛に曰く、
金剛眼晴 生滅面皮 七尺藤杖 接獅子児 一柄塵払 作人天師 平生作用 瞬目揚眉 為人化道 従来無為 淵才偉器 願海難窺
是謂当山中興大梅之第一枝
普明住山輝岳拝題
然るに其後明治維新に当り排仏毀釈のため殆ど廃寺の状態となつてゐたが大正六年三月と昭和六年三月と二回に本堂庫裏等改築し今日に至つたのである。
「肥前史談」第8巻第3号 昭和10年(1935)3月 肥前史談会 佐賀:15-17頁
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造化大明神
本文は、風土記における紹介、造化大明神、幡石、烏帽子石の紹介、「登山口」である禅宗(黄檗宗)の古刹大梅山新清水寺の紹介から構成されています。
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巨石文化の大遺蹟
松梅村下田山中の石神群(一)
久保生
世にも珍らしき三千年前の巨石文化を語る一大遺蹟=古代民族の信仰の対象たる石神群が我が佐賀郡松梅村下田の山中に近頃発見せられ今や各方面に多大のセンセーションを捲き起すに至つた。肥前風土記に曰く「川上有石神曰世田姫海神云々」と。
風土記の編纂年代に就ては種々説あるが、奈良朝元明天皇和銅六年五月甲子の制に「畿内七道諸国郡郷名著好字其郡内所生銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具録色目及土地沃塉山川原野名号所由又古老相伝旧聞異事載于史籍言上」とあるに徴すれば即ち奈良朝時代(今を去る千二百数十年前)と見るのが至当であらう。
尤も風土記の記事の多くは動もすれば一概に口碑伝説として取扱はるゝ傾なきにあらず。併しそれが今眼前に事実として現はれ来つたと云ふのは何人も驚異の眼をみはる所である。
是に於て去る一月には県政記者団が見学に赴き、二月には関総務部長一行、肥前史談会員等の団体見学続て県史蹟調査員の出張となり其の都度余は参加し、幾度も踏査し、大に得る所があつたが以下案内を兼ねて記述し、更に考古学上の見地から少しく卑見を陳べて見たいと思ふ。
巨巌が樹林の間から
佐賀から川上街道を北上し、都渡城から更に川上川の清流に沿ひ日親上人の遺蹟や加藤清正槍先の題目で有名なる宝塔院の前を過ぎ、渡月橋畔に出づれば直ぐ下田の部落新清水門前で此処は即ち登山口である。此の下田は三面山を以て囲繞せられ、僅に西南の一方川に沿うて湾曲し、稍々平地が開けてゐる位で登山口に立てば眼前に金敷山(四二五米)に続て家石山(三二四米)等が横はり、呼べば応へんとし、そして鬱蒼たる樹林の間からは幾つとなく巌角が露れ其の家石山中腹にあるのが即ち本体の石神だそうで、地方の人々は造化大明神と呼んでゐる。又少し隔てた右手の山腹には白旗を立てたやうな形をなした巨巌が見へるのは、往昔造化大明神が何処からか天降りになる時押立てゝ来た白旗を其の巌に立掛けたのがそれである奇しき伝説さへあるに、十数年前には其の上空を真鶴が舞うてゐたこともあると云つてゐる。更に左手には烏帽子の形をなしたのや或は両断してそれを合せたやうのや其他幾つもの奇巌怪石が点在し、攀登に先ちて漫ろに好奇心をそゝる。
大梅山新清水寺
新清水門前から上ること一丁内外にして大梅山新清水寺だ。石神とは別に関係はないやうであるけれども此処は登山者がどうしても一度は足を停めねばならぬ格好の地位にあるから紹介する必要がある。
此の寺は藤津郡古枝村普明寺と法縁関係があり、其の創建は詳かでないが開山は聚海禅師法名際祥、宝暦六年八月十三日遷化されたとあるから之から推定せば享保或は元文年間であらう。而して聚海禅師の法系は、普明寺開山桂巌禅師-霊堂-界輪-聚海(即ち大梅開山)-義文-乾外(普明寺第十四代)-貫通-不昧-禅機-敦宗(佐賀市三溝大興寺住理職中島敦宗師)となつてゐる。其の聚海禅師が礼服着用柱杖子を携へ、椅子に靠りし肖像画は普明寺第十八世の賛があり、今尚ほ普明寺塔頭宝泉寺に珍蔵されてゐる。賛に曰く、
金剛眼晴 生滅面皮 七尺藤杖 接獅子児 一柄塵払 作人天師 平生作用 瞬目揚眉 為人化道 従来無為 淵才偉器 願海難窺
是謂当山中興大梅之第一枝
普明住山輝岳拝題
然るに其後明治維新に当り排仏毀釈のため殆ど廃寺の状態となつてゐたが大正六年三月と昭和六年三月と二回に本堂庫裏等改築し今日に至つたのである。
「肥前史談」第8巻第3号 昭和10年(1935)3月 肥前史談会 佐賀:15-17頁
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造化大明神
Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神
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