2017年07月18日
下田の石神群の「発見」(12) 「肥前史談」より(4)
「肥前史談」の連載3回目です。
この(3)では(1)・(2)と異なり記紀其他の文献を縦横に引用しながら下田の石神群の位置づけを行っています。
最後に、「石神を崇敬し、下田の地を霊域として相当の施設を講じたい」と述べていますが「崇敬」し「霊域」としての扱いはされているのでしょうか。
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巨石文化の大遺蹟
松梅村下田山中の石神群(三)
久保生
以上、大体石神の位置形状等に就て記したが、之れから記紀其他の文献に拠りて少しく述べて見たい。肥前風土記に曰く、
郡西有川名曰佐嘉川 年魚有之 其源出郡北山 南流入海 此川上有荒神 往来之人半生半死 於茲県主等祖大荒田占問 于時有土蜘蛛 大山田女 狭山田女二女子云 取下田村之土 作人形馬形祭祀神必在応和 大荒田即随其辞祭此神 神歆此祭遂応和之=又此川上有石神曰世田姫海神云々
風土記の編纂年代に就ては種々説があるやうであるが奈良朝元明天皇和銅六年五月甲子の制に
畿内七道諸国郡郷名著好字其郡内所生 銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具録色目 及土地沃塉 山川原野名号所由又古老相伝旧聞異事 載于史籍言上
とあるに徴すれば即ち奈良朝時代(千二百数十年前)と見るのが至当であらう。只だ風土記の記事の多くは動もすれば一概に口碑伝説として取扱はるゝ傾があるのであるが、それが今目前に事実として現はれ来つたのは何人も驚異の眼をみはる所であり、又史学会に一大センセーションを惹起するに至るべく、何れにしても近来の大問題である。
而して此の石神に関しては古来専門学者間にも種々意見があり未だ定説としても聞かないやうであるが、茲に其の大体の意見を綜合すれば石神なるものは奇石、霊石、石棒、石剣の類を神体として祀る神の名称であって、音読してシャクジンと云ひ、それが転訛してシャクジ、サクジ、サゴシ等と称してゐる。其の石を神として崇拝した最も古き例は神代に伊邪那岐命の黄泉比良坂に塞りし石を道反大神と号し其の時携へた杖を投じて之を岐神と名つけられたのが初めであるそうで、普通俗間にて石神と称するは路傍巷間に祀り、或は山間辺境にも少なくない。其の信仰は良縁安産及び子育等に霊験ありとして祈願するやうである。又石神のシャクジンは塞神の字音より来たそうで、本体は岐の神又は道反の神に起因し塞のサクは塞障の義或は辺境々界の意にして本来サヘの発音より転してサヒとなり更にサキともサクとも転訛し、遂にシャギとなったもので所謂道祖神にも関係を有してゐる。道祖神と云へば造化神として世人に崇敬せらるゝこと既に周知の事である。
巨石が信仰の対象
それから又古代民族-我等の祖先が巨石(石神)を以て偉大なるものゝ表象或は信仰の対象としたことに就て研究して見たい。「記」に載する所によると、伊邪那岐命が佩せる十拳剣を抜いで其の子伽貝土神の頸を斬り給へる際其の刀の前についた血が湯津原村にたばしりて成りませる神の名は石折神次に根折神、次に石筒之男神、次に着ける御刀の本の血が湯津原村に走りて成りませる神の名は甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、また建布都神とあつて是等は何れも堅き勇ましい神である。之に因て当時民族の心理状態を考へると大なる力を有つた巨石から出て、神々が男性的の力強い武勇の神となつてゐる。
又「紀」には「剣刃垂血是為天 安河辺所在五百箇磐石即此経津主神之祖矣」と記され、更に「古事記」には大国主命の国譲の条に建御名方神に就て記して曰く、「其建御各方神 千引石擎手末而来 言誰来我国 忍々如此物言…」
と此の千引とか五百引とか云ふのは石の重さを示したもので今日力を表はすに幾馬力という風に量るのと同一である。
そんな風で巨石―岩―などに対しては神秘的な偉大なる不可思議なる力のあるもの雄大なるものであると考へてゐたことが是等の例に依つて首肯される(天照大神が岩屋戸に隠れ給ひ天手力男命が御手を取りて引立し奉つた神話伝説の如き岩との関係に就て考へると意味深長である)。
次に「紀」の高皇産霊尊の勅に曰く、
「吾則起樹天津神籬及天津磐境 当吾孫奉齋矣…」
此の磐境はイハサカとも訓み、玉垣の如く石を並べたもので神は此内に在ますものと解せらる。又万葉集第二巻の中に高市皇子尊、城上殯宮之時 柿本朝臣人麿作歌一首並短歌として、
「…神佐扶跡 磐隠坐 八隅知之 吾王乃 所聞見為…」
同第三巻に河内王を豊前国鏡山に葬れる時の歌として、
「豊国乃鏡山之石戸立 隠爾計良志雖待不来座」
とあり、此の石隠といふのは人の死んだ場合にも使つてゐるが、単に形容の言葉ではなく古墳の内が石壁石天井にて造られてあることから此の意味も亦含まれて居る。是亦巨石文化思想の一端と見るべきであらう。尚ほ、今日の神社の境内に力石と云ふのがあり又墳墓の如き皆な石を用ゐてゐるのはそうした昔からの因縁関係があるからである。其他是等に関する文献は多々あるが余り煩雑になるから茲には只だ其の一例を挙げたに過ぎない。
世界的にも珍しい
それから此の石神に関して記述した文書中一二を左に録せば、
△播磨風土記-(神島伊刀島等)所以称神島者此島西辺在石神形似仏像故因為名
(神山)此山在石神故号神山
△擁画漫筆-石神は道神の神体にて今も坂東の国々に円石を祭ることあり。武蔵豊島郡の石神井、足立郡の石神などいへる村落も之に起れるなるべし。
△雲根志-洛大宮通の西上立売の北に石神の社あり、祭る所岩なり。此の神体の岩昔堀川の西三条の南にあり、中頃禁裏の築山に移さる。或時奇怪なるを以て禁闕の外に出さしむ。然して年あり、其後今の地に移し、社に封じて石上大明神と崇め奉る。
△倭訓栞-、出雲風土記に石神と見ゆ。尾張にては猿田彦神を云ひて石神といふ。仁明紀に陸奥国玉造温泉石神式、常陸国鹿島郡大洗磯前社の事文徳実録に委しく見えたり。又能登国羽咋郡大穴持像石神社、又伊勢国鈴鹿郡の石神神社、此の石神神社を今シャク大神といふ。小社村の山にある高さ百丈余の奇厳なり。
などあり。其中にて伊勢の石神の如きは高さ百丈余と云へば随分大きなものであるが、我が下田の石神に至りては、其の数に於ても他に数十倍し、而かも何れも雄大なもので千状万態実に驚嘆の外ない斯の如きは全国は勿論世界的にも珍らしいのである。
尚ほ、此の下田山中に奉祀した世田姫に就ては学者間に種々説あるが、こゝには伴信友著の神社私考を挙げて参考に供する。曰く、
神功皇后の御妹なり。三韓征伐の時干珠満珠の両顆を得、皇后に奉りて大功を立て給ふ。皇后韓国より凱旋の後この姫命に豊国に任じて韓国の戍とし給へるにより国名を負はせて豊姫とも称へ申したりけん。
石神と祖先崇拝
最後に一言したい。我が古代民族が石神を祀り、石神を信仰の対象としてゐるのは実に其の威霊の加護を仰ぎ、家の守り国の守り民族子孫の繁昌を遂げしめんことを祈るに外ならないのである。
素より我が日本は神国である。敬神の道と云ふは即ち民族祖先の崇拝であつて、代々の遠祖は幽界に在りて其の代々の子孫を保護し、代々の子孫は現世に在りて代々の祖先を祀る。家に於けるの祭祀、国に於けるの祭祀其の義異なることなし。言を換へて云へば家に在りて孝と云ひ、国に在りては忠と云ふ、固より異なることなく我が忠孝の一本は茲に存するのである。されば、此の意味に於て我石神を崇敬し、下田の地を霊域として相当の施設を講じたいものである。
「肥前史談」第8巻第5号 昭和10年(1935)5月 肥前史談会 佐賀:17-20頁
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河上神社
この(3)では(1)・(2)と異なり記紀其他の文献を縦横に引用しながら下田の石神群の位置づけを行っています。
最後に、「石神を崇敬し、下田の地を霊域として相当の施設を講じたい」と述べていますが「崇敬」し「霊域」としての扱いはされているのでしょうか。
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巨石文化の大遺蹟
松梅村下田山中の石神群(三)
久保生
以上、大体石神の位置形状等に就て記したが、之れから記紀其他の文献に拠りて少しく述べて見たい。肥前風土記に曰く、
郡西有川名曰佐嘉川 年魚有之 其源出郡北山 南流入海 此川上有荒神 往来之人半生半死 於茲県主等祖大荒田占問 于時有土蜘蛛 大山田女 狭山田女二女子云 取下田村之土 作人形馬形祭祀神必在応和 大荒田即随其辞祭此神 神歆此祭遂応和之=又此川上有石神曰世田姫海神云々
風土記の編纂年代に就ては種々説があるやうであるが奈良朝元明天皇和銅六年五月甲子の制に
畿内七道諸国郡郷名著好字其郡内所生 銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具録色目 及土地沃塉 山川原野名号所由又古老相伝旧聞異事 載于史籍言上
とあるに徴すれば即ち奈良朝時代(千二百数十年前)と見るのが至当であらう。只だ風土記の記事の多くは動もすれば一概に口碑伝説として取扱はるゝ傾があるのであるが、それが今目前に事実として現はれ来つたのは何人も驚異の眼をみはる所であり、又史学会に一大センセーションを惹起するに至るべく、何れにしても近来の大問題である。
而して此の石神に関しては古来専門学者間にも種々意見があり未だ定説としても聞かないやうであるが、茲に其の大体の意見を綜合すれば石神なるものは奇石、霊石、石棒、石剣の類を神体として祀る神の名称であって、音読してシャクジンと云ひ、それが転訛してシャクジ、サクジ、サゴシ等と称してゐる。其の石を神として崇拝した最も古き例は神代に伊邪那岐命の黄泉比良坂に塞りし石を道反大神と号し其の時携へた杖を投じて之を岐神と名つけられたのが初めであるそうで、普通俗間にて石神と称するは路傍巷間に祀り、或は山間辺境にも少なくない。其の信仰は良縁安産及び子育等に霊験ありとして祈願するやうである。又石神のシャクジンは塞神の字音より来たそうで、本体は岐の神又は道反の神に起因し塞のサクは塞障の義或は辺境々界の意にして本来サヘの発音より転してサヒとなり更にサキともサクとも転訛し、遂にシャギとなったもので所謂道祖神にも関係を有してゐる。道祖神と云へば造化神として世人に崇敬せらるゝこと既に周知の事である。
巨石が信仰の対象
それから又古代民族-我等の祖先が巨石(石神)を以て偉大なるものゝ表象或は信仰の対象としたことに就て研究して見たい。「記」に載する所によると、伊邪那岐命が佩せる十拳剣を抜いで其の子伽貝土神の頸を斬り給へる際其の刀の前についた血が湯津原村にたばしりて成りませる神の名は石折神次に根折神、次に石筒之男神、次に着ける御刀の本の血が湯津原村に走りて成りませる神の名は甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、また建布都神とあつて是等は何れも堅き勇ましい神である。之に因て当時民族の心理状態を考へると大なる力を有つた巨石から出て、神々が男性的の力強い武勇の神となつてゐる。
又「紀」には「剣刃垂血是為天 安河辺所在五百箇磐石即此経津主神之祖矣」と記され、更に「古事記」には大国主命の国譲の条に建御名方神に就て記して曰く、「其建御各方神 千引石擎手末而来 言誰来我国 忍々如此物言…」
と此の千引とか五百引とか云ふのは石の重さを示したもので今日力を表はすに幾馬力という風に量るのと同一である。
そんな風で巨石―岩―などに対しては神秘的な偉大なる不可思議なる力のあるもの雄大なるものであると考へてゐたことが是等の例に依つて首肯される(天照大神が岩屋戸に隠れ給ひ天手力男命が御手を取りて引立し奉つた神話伝説の如き岩との関係に就て考へると意味深長である)。
次に「紀」の高皇産霊尊の勅に曰く、
「吾則起樹天津神籬及天津磐境 当吾孫奉齋矣…」
此の磐境はイハサカとも訓み、玉垣の如く石を並べたもので神は此内に在ますものと解せらる。又万葉集第二巻の中に高市皇子尊、城上殯宮之時 柿本朝臣人麿作歌一首並短歌として、
「…神佐扶跡 磐隠坐 八隅知之 吾王乃 所聞見為…」
同第三巻に河内王を豊前国鏡山に葬れる時の歌として、
「豊国乃鏡山之石戸立 隠爾計良志雖待不来座」
とあり、此の石隠といふのは人の死んだ場合にも使つてゐるが、単に形容の言葉ではなく古墳の内が石壁石天井にて造られてあることから此の意味も亦含まれて居る。是亦巨石文化思想の一端と見るべきであらう。尚ほ、今日の神社の境内に力石と云ふのがあり又墳墓の如き皆な石を用ゐてゐるのはそうした昔からの因縁関係があるからである。其他是等に関する文献は多々あるが余り煩雑になるから茲には只だ其の一例を挙げたに過ぎない。
世界的にも珍しい
それから此の石神に関して記述した文書中一二を左に録せば、
△播磨風土記-(神島伊刀島等)所以称神島者此島西辺在石神形似仏像故因為名
(神山)此山在石神故号神山
△擁画漫筆-石神は道神の神体にて今も坂東の国々に円石を祭ることあり。武蔵豊島郡の石神井、足立郡の石神などいへる村落も之に起れるなるべし。
△雲根志-洛大宮通の西上立売の北に石神の社あり、祭る所岩なり。此の神体の岩昔堀川の西三条の南にあり、中頃禁裏の築山に移さる。或時奇怪なるを以て禁闕の外に出さしむ。然して年あり、其後今の地に移し、社に封じて石上大明神と崇め奉る。
△倭訓栞-、出雲風土記に石神と見ゆ。尾張にては猿田彦神を云ひて石神といふ。仁明紀に陸奥国玉造温泉石神式、常陸国鹿島郡大洗磯前社の事文徳実録に委しく見えたり。又能登国羽咋郡大穴持像石神社、又伊勢国鈴鹿郡の石神神社、此の石神神社を今シャク大神といふ。小社村の山にある高さ百丈余の奇厳なり。
などあり。其中にて伊勢の石神の如きは高さ百丈余と云へば随分大きなものであるが、我が下田の石神に至りては、其の数に於ても他に数十倍し、而かも何れも雄大なもので千状万態実に驚嘆の外ない斯の如きは全国は勿論世界的にも珍らしいのである。
尚ほ、此の下田山中に奉祀した世田姫に就ては学者間に種々説あるが、こゝには伴信友著の神社私考を挙げて参考に供する。曰く、
神功皇后の御妹なり。三韓征伐の時干珠満珠の両顆を得、皇后に奉りて大功を立て給ふ。皇后韓国より凱旋の後この姫命に豊国に任じて韓国の戍とし給へるにより国名を負はせて豊姫とも称へ申したりけん。
石神と祖先崇拝
最後に一言したい。我が古代民族が石神を祀り、石神を信仰の対象としてゐるのは実に其の威霊の加護を仰ぎ、家の守り国の守り民族子孫の繁昌を遂げしめんことを祈るに外ならないのである。
素より我が日本は神国である。敬神の道と云ふは即ち民族祖先の崇拝であつて、代々の遠祖は幽界に在りて其の代々の子孫を保護し、代々の子孫は現世に在りて代々の祖先を祀る。家に於けるの祭祀、国に於けるの祭祀其の義異なることなし。言を換へて云へば家に在りて孝と云ひ、国に在りては忠と云ふ、固より異なることなく我が忠孝の一本は茲に存するのである。されば、此の意味に於て我石神を崇敬し、下田の地を霊域として相当の施設を講じたいものである。
「肥前史談」第8巻第5号 昭和10年(1935)5月 肥前史談会 佐賀:17-20頁
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河上神社
Posted by jirou at 12:00 | Comments(0) | 下田石神
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